父親の“撤退”という知恵
家庭が冷戦時期に入るのを待ってから、義父母に自分たちの争いを見せないため、そして火山のように発する言葉で人を傷つけたオードリーとの間に修復不可能な傷を残さないよう、両親は二世帯が同居していた家の、互いが行き来できるよう繋げていた廊下を封鎖することを決めた。
母親はこう綴っている。
「当時、私の状況はもはやどうにも説明できないほどひどいものだった。説明しても相手に聞き入れられたことはなかった。『子どもが叩かれたから学校に行かない』というのは、主流の価値観の中では、本当に受け入れ難いことだったからだ。どんなに言葉で説明しても意味がなく、さらに迷惑をかけることになるだけだと気付いてから、私はもう固く口を閉じて何も言わず、まずは全力で子どもを救い出そうと決めた。仲の良い友人たちから冷ややかな視線や言葉を浴びせられても、過去の『友情貯金』を手に、これまでの信頼に賭けるしかないのだ。
私はこの子の未来が好転した時、すべては過去になると心から信じていた。
義父母の心配はこの子への愛情あってこそなのだから、私が健康で活発な孫をお返しさえすれば、一切の誤解や非難も解くことができるはずだ」
そして、父親も彼なりに苦しんでいた。
両親は連れ立って専門家のもとを訪ねて回ったが、必要としている答えは得られなかった。
間もなくして、父親はドイツ留学を決心する。
「僕は行くよ! 子どもたちのことは任せるよ。これからは君がすべての責任を負ってくれ」──そう言い残して台湾を立って行くのだが、それには父親の考えがあった。子育ての方針において夫婦が互いに譲れず、父子の衝突も硬直状態、同居する自分の両親や親族らのことを考慮した末、この「家庭戦争」から自分が“撤退”することで母親に指揮権を譲ったのだった。
母親はこの父親の判断について、手記の中で感謝の気持ちを綴っている。
「理性や知識、善意や努力といったことでは解決できない問題にぶつかった時、少なくとも適切なタイミングで撤退するという知恵を発揮し、私に手離させてくれたこと、必要な時に前に出てきてくれたり、応援の手を差し伸べてくれたこと。彼のサポートがあったから夫婦の関係を維持できたし、父子の絆も決裂することなく、私は最も困難な時期を乗り越えられた」