春日良一「命と引き換えにするほどの価値があるのか議論すべき時」#東京オリパラ開催なら


今回、国や都市がそれぞれ取り組んでいるコロナ対策についても、国際的な協力関係を構築するという視点が見えてくるのではないか?

1月27日にリモート開催されたIOC理事会後の記者会見でバッハ氏は「各NOCがそれぞれの国の政府にアプローチして選手のワクチン接種の協力を仰ぐように」と語った。また、それ以前に、IOC名誉委員のゴスパー氏がオーストラリアのテレビ番組で「東京五輪が開催可能かどうか、国連への関与を求めるべきだし、私たちはそうしてきた」と言った。多くの評論家はこれを五輪開催不可のお墨付きを国連に託すとみているようだが、その意図は、コロナ禍における各国政府間の協力を仰ぐことであっただろう。

おそらく、2010年バンクーバー冬季オリンピックの前年に蔓延した豚インフルエンザの対策で国連の協力を得た時のことなど、あくまでも五輪開催のために国連の力を借りるというスタンスである。

現状ではコロナに支配された世界しか見えないが、東京オリンピック開催を実現する努力の中で、いま分断されていく世界が連帯していく道が見えてくるのではないか? もし、コロナ禍でも世界最大のスポーツ大会が開催されれば、世界の人々は、国を超えて集まった選手たちの躍動の中に、人と人とが繋がっていることの幸せを確信できるのではないか? それは例え物理的に離れていたとしても、精神的に励まし合い助け合うことができる異次元の人間関係に気付ける瞬間になるのではないか?


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オリンピック開催を可能にするにはどうしたらいいのか?


感染リスクを限りなく少なくして、オリンピック開催を可能にするにはどうしたらいいのか? 昨年11月に日本で開催された体操の国際大会「友情と絆の大会」は、選手と外部との接触を遮断する「バブル」方式で開催された。4カ国30名という限られた人数であったが、成功裏に終了している。

この「バブル」方式は、昨年テニスの全米オープンで試されて以来、数々の世界選手権で取り入れられている。参加者をカテゴライズし、それぞれの導線、PCR検査、行動管理を徹底していく。「バブル」と呼ばれるのは選手やコーチなど第一カテゴリーに限定された行動範囲である。選手たちを泡が包み込んで守るようなイメージである。

1月末日に終了したハンドボールの世界選手権も「バブル」方式で成功した。バッハIOC会長はビデオメッセージで「大いに励みになる。この経験が東京五輪にも生きる」と祝辞を寄せた。が、問題は観客である。

オリンピズムが観客にこだわるのは、オリンピックが世界選手権とは違い、ただその競技の頂点を決めるだけの大会ではないからである。そこに人種、国境、政治、宗教、経済などのあらゆる格差を超えて、スポーツで競い合う選手が見せるパフォーマンスの秀逸性、結果を超えた選手同士の友情、相互の信頼が生成され、その場で共有する観客がいることで、そのメッセージと感動が体現化され、世界に伝わる。無観客では伝わらないものがある。感染拡大と感染抑制対策進捗の状況を勘案して、IOCはギリギリまで観客数については検討する方針である。

しかし、状況によっては「無観客」の選択をしなければならない。とすれば、まさに東京五輪を無観客であっても、オリンピックの理念が失われない大会にする方策を突き詰めていく必要がある。無観客でも開催ができれば、それはテレビ放映され、世界の人々に伝搬される。その選手たちの競い合う姿を実際に競技会場で観戦しているよう視聴できないだろうか?

ふと1992年のバルセロナ五輪に選手団本部として派遣された時のことが思い出された。選手村の本部室にテレビがあり、そこでは各会場の試合の様子が映し出されていた。それは実況も解説もなく、競技を淡々と放映するものだ。会場の音が聞こえて来るだけだった。バレーボールなら、ボールを叩く音、選手のシューズが床を擦る音、実際に観戦している時の臨場感があった。今ならさらに進んだ技術でリアルな観戦に近づけるだろう。
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文=春日良一 編集=宇藤智子

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