春日良一「命と引き換えにするほどの価値があるのか議論すべき時」#東京オリパラ開催なら

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この議論に欠けているものがある。それがオリンピックの理念、オリンピズムという視座である。オリンピズムとは端的に言えば、「スポーツで世界平和を構築する」という理念である。この理念を内包しているがためにオリンピックはスポーツという枠を超えて、さらには文化という枠を超えて議論される必要があるが、「オリンピックは平和の祭典」は五輪のキャッチフレーズのように思われているか、巨大なエンターテイメントに過ぎないと受け止められているのが現実ではないか。

理念については誰も批判はできないので黙して語らずだが、しかし、それ故に東京五輪については、中止した場合の経済的影響や開催した場合の感染拡大についての論議にしかならない。

これまでこの点について開催都市である東京都も、組織委員会も、そして日本オリンピック委員会(JOC)も熱意をもって伝えて来なかった。理念は単純だが、きちんと説明して納得してもらうには相当の努力が必要で(この努力をオリンピックムーブメントと言う)、「そんなことを言ってもたかがスポーツだろう」という声も聞こえるからだ。

されど、オリンピックというサーカスがやってきて、人々は大いに盛り上がり、感動し、その中からスポーツは素晴らしいという記憶が宿るのも事実だ。そうなれば、理屈抜きにオリンピズムの一雫を人々が得たことになり、また次の五輪に継承されていく。五輪の理念を伝えるという厄介な仕事をせずに済む。

しかし今、コロナが問いかけている。オリンピックは命と引き換えにするほどの価値があるのか?と。そのことを開催する都市の都民が、開催国の国民が徹底的に話し合う機会が来ているのではないか?

議論の柱を提示したい。

実に古代オリンピックの起源は、絶え間ない戦争と蔓延る疫病に疲弊する中、デルフォイの神殿にて、オリンピアでの競技祭開催を宣託されたことにある。四年に一度、武器を捨ててオリンピアに集まる休戦思想が生まれた。

近代オリンピックがその思想を受け継ぎ、サマランチ第7代IOC会長の時にオリンピック休戦決議が国連で採択された。1994年リレハンメル冬季五輪以降、毎大会ごとに国連の採択を得ている。休戦思想を継承していくためには、五輪開催が必然となる。それによって国家間のパワーバランスが維持される可能性を高めることができる。

その休戦思想を実現できる機会を与えられたのがオリンピック開催都市であり、その実践こそ、その都市が果たさなければならない使命となる。オリンピック競技大会はオリンピアード(オリンピック独自の4年毎の暦年)の第一年目に開催されると定められている。故に、2020年、すなわち第32回目のオリンピアードの第一年目と開催都市はセットである。

日本の政治家が2024年への延期や2032年での開催を論じても、その実現は難しい。2024年は第33回目のオリンピアードの第一年目であり、それはパリが果たすべき開催であり、2028年は第34回のオリンピアードの第一年目であり、ロサンゼルスにその名誉が与えられている。また次の2032年は第35回のオリンピアードの第一年目。開催には、インド、オーストラリア、インドネシア、中国、そして南北統一コリアの都市が立候補している。休戦宣言の名誉を放棄した都市が選ばれるのは難しい。


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IOCは国連とはまた異なる「平和のための国際政治力」を維持


オリンピズムを実践するために、国際オリンピック委員会(IOC)にはさまざまな仕掛けがある。その最も根本的な一つは、IOCが100名程度の委員が構成するプライベートな団体であることだ。国際連合は世界平和のために創設されているが、それぞれの国家を代表するものの集まりであるから、国家利権の調整による平和維持の機関となる。しかし、IOC委員はオリンピズムを実践するために各国に派遣された五輪大使であり、そこに国家権力の入る余地は理論的に存在しない。

1896年アテネで開催された時の参加国数は14カ国であったオリンピックは、2016年リオでは205カ国・地域となった。現在、国内オリンピック委員会(NOC)の数は206となり、全世界的規模である。政治に支配されない「平和の祭典」は政治を超克した存在であり、そのことによって国際政治力を維持することができる。
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文=春日良一 編集=宇藤智子

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