20世紀にはさらにラグジュアリーの意味の更新合戦が進むのですが、これに関しては別の機会に議論していくとして、ラグジュアリーが決定的な変質を起こすきっかけになったのは、1984年。ベルナール・アルノーがマルセル・ブサック・グループを買収し、クリスチャン ディオールを基盤とするラグジュアリーブランドの世界戦略を開始した年です。
ベルナール・アルノー(Claudio Lavenia / by Getty Images)
以後、資本家は競ってラグジュアリーブランドの売買劇を繰り返し、デザイナーはクリエイティブディレクターと称されて資本家の駒となり、21世紀の初めには、それらブランドの商品が世界同一基準で氾濫するどころか、アウトレットに半額以下で量販されるという事態を引き起こしています。
さらにこの数年では、職人技術を売りにする高価な服飾品の在庫が大量に焼却処分されるという報道も注目を集め、持続可能性の観点からも、大幅な変容期の渦中にあるのが現在かと思います。
新しいラグジュアリーはプロテスタント
このような流れには与しないブランドももちろんあり、また、「本物の」ラグジュアリーは表に出てこないという事実は常にあります。しかし、安西さんが表現するところの「肥大化」を起こしてしまった「ラグジュアリーブランド」にはもはや豊かさも誘惑力も人を輝かせる要素も見出すことが難しくなっています。
その意味で、これも流れをわかりやすくするための極端な言い方ですが、「ラグジュアリーブランドはもはやラグジュアリーではない」。この考え方が、本連載のタイトル「ポスト・ラグジュアリー」にもつながっています。
この現状を踏まえ、日本を含む世界各地で起きている新しいラグジュアリーの動きを追っていますが、勉強会のメンバーの一人、クラシコム代表の青木耕平さんが、状況を次のような表現で看破しました。
「従来のラグジュアリーをカトリックとみなせば、新しいラグジュアリーはプロテスタント」。現在の立ち位置を認識するうえでわかりやすく、ラグジュアリーにはどこか神秘がつきまとってきたという意味でも、違和感のない喩えです。
以上は、ファッション史からの概観であり、ビジネス、アカデミズムの視点から見ると、甘い印象論に偏りすぎていると受け取られるかもしれません。リサーチに基づくデータからは全く違う世界が見えてくることでしょう。この点に関しては、後半の安西さんのパートに譲りたいと思います。
言葉の由来から始めたので、言葉の話で締めくくらせていただくと、「Luxury」のファッション史的な意味での反対語は「Poor(清貧)」ではなく、「Vulgar(下品)」です。この場合の「下品」とは、本来のものではないものになろうとすること。虚栄と結び付けられがちなラグジュアリーではありましたが、プロテスタントとしてのラグジュアリーは、虚飾とは真逆の、むしろ原点や本質に今一度、立ち返ることが基本になりそうです。