中世イングランドを舞台に、とある老夫婦が、遠い地に住む息子に会うため旅に出る。だが二人の記憶は曖昧で、大事なことが思い出せない。山に潜むドラゴンの吐く息が国中を覆う霧となり、人々の記憶を消し去ってしまうからだ──。
ファンタジーの設定をうまく利用しながら、いまこの世界で起きる紛争や人種差別、過去から繰り返される問題を解消できない社会のさまを、「まるで共同体ごと記憶を失ったかのようだ」と言わんばかりに比喩する。
連鎖する「社会の記憶」
本作の原題は『The Buried Giant』なので、本来は『忘れられた巨人』よりも『埋められた巨人』のほうがニュアンスが近い。
私たちは個人の記憶を持つように、社会や共同体としての「集団的記憶」を持つ。だが、それが「埋められる(忘れられる)」がゆえに起こる悲劇がある。偽りの平和に隠され、解決されないまま忘れ去られた記憶(=埋められた巨人)は、ときに何かの意図のもと掘り起こされ、新たな争いを生む火種となる。
そんなことをテーマにした作品を書くきっかけとなったのは、旧ユーゴスラビア地域での紛争だったという。
第二次世界大戦後、同地域では異なる民族が混在し、良好な婚姻や隣人関係を築く多民族国家として平穏に暮らしていたはずだった。
しかしセルビア人は、1世代前の第二次世界大戦時にナチス・ドイツの支配下にあったクロアチアから受けた迫害や、民族浄化による虐殺、収容所のホロコーストの惨状を忘却してはならないと刷り込まれた。
そして90年代のユーゴ解体とともに、それまでチトー政権の共産主義体制によって抑えられていた対立の記憶や、憎悪と復讐心が顕在化するようになった。それは、まるで埋もれていた巨人が息を吹き返すかのように、共同体に再び荒波をもたらした。
89年に冷戦が終結し、新たな時代のはじまりに希望を抱いていたイシグロだったが、実際はそうではなかった。「平和に共存しているように見えた民族が、憎悪の記憶をあおられ、お互いを殺し合った」と、その衝撃を語る。
その悲惨な虐殺の連鎖は『忘れられた巨人』作中でも、サクソン人とブリトン人の戦いの歴史に例えられている。
敵方であれ子供までもを皆殺しにするのは、あまりにも代償が大きいのではと問う主人公に対して、「(あなたが)心を痛めるその少年たちは、やがて戦士となり、今日倒れた父親の復讐に命を燃やしていたはず。殺戮の循環は途切れることなく、復讐への欲望は途絶えることがありません」と語り、これが「来たるべき平和の始まり」だと信じる。盲目的なその姿には、悲哀すら漂う。