──これまでの人生で、最も大きな転機は何でしたか。転機に遭遇したとき、どのように進むべき道を決めるのでしょう? 今の自分なら異なる選択をしたと、後悔や反省を感じることはありますか。
最も大きな転機の一つは、20代のときだった。その頃、私はロンドンに住んでいたが、まだ会ったことすらない男性に恋をしていた。彼の名はバーナード・レビン。英紙タイムズのコラムニストだった。彼のコラムを切り抜いてはアンダーラインを引き、暗記したものだ。
そして、ついに彼と会う機会に恵まれたのだが、緊張で固まってしまい、言葉が出てこなかった。彼は私の2倍の年齢で、体格は私の半分。それでも、バーナードは私をディナーに招待してくれた。
私はデートに備え、準備にいそしんだ。美容院に行ったのではない。彼のコラムや北アイルランド情勢に関する記事を片端から読み込んだのだ。もちろん、デートでは北アイルランド情勢の話など出なかったが、私たちは恋愛関係に陥った。
それから7年。私は三十路を迎え、子供が欲しいという思いを抑えきれなくなった。だが、彼はネコだけでいいと考えていた。そして、私は、恐れていたことを実行した。心から愛していた人に別れを告げたのだ。ロンドンにとどまったら、別れられる自信がなかったので、ニューヨークに移り住んだ。
子供たち、著書の数々、ハフィントンポスト、スライブ・グローバル─。どれも、彼が私と結婚してくれなかったために生まれたものばかりだ。だが、転機というものは、後年振り返って初めて、あれがそうだったと、クリアに見えてくるものだ。その大小にかかわらず、自分が下した決断の数々が、今日の自分の人生を形作ってきたのだ、と。
どのような転機からも学ぶことはあったので、後悔があるかどうかはわからない。だからと言って、今、同じ転機に遭遇しても、まったく同じ選択をすると言っているわけではない。たとえば、若かりし頃の自分に忠告できるとしたら、成功にはバーンアウト(燃え尽き)や消耗という代償が付き物だという妄想を信じるな、と言ってあげたい。
──あなたは、1990年代に貧困や格差の解決に関心を持ち、保守派の論客からリベラル派に転じたと、日本では報じられています。
関心を持っていることや、そうした問題について、こうしたいという目標などは変わっていない。変化したのは、政府の役割をめぐる私の認識だ。私たちが望ましい結果を出そうとするとき、政府がどのような役割を果たすのかについて、私の認識が変わった。以前は、収入格差のような、米国が直面する問題に民間セクターが進んで取り組み、解決できると考えていた。
だが、そうしたことは起こらないことを目の当たりにし、今後も期待できないと思った。だから、政府のみが行使できる権力をはじめ、(政策や規制などの)規模・領域の大きさ、政策決定なしには、根本的な社会問題への取り組みは不可能だと考えるようになった。
──ハフィントンポスト創業後、明るくなったという、あなたのご家族の声が以前、報じられました。政治の論客よりもメディア経営に向いていたのでしょうか。起業家や経営者としてのやりがいを感じるのは、どのような時でしょう?
私の人生を紡ぐスルーライン(一貫した筋道)の一つは、人々がコミュニティーに参加し、つながり合う手助けをすること。(私が明るくなったのは)そうした理由によると思う。異なる世界の人々が一つになり、興味深い対話を交わし合うよう促すことは、私の中に流れるギリシャ的DNAだ。
ハフィントンポストの本質は、政治から芸術、本、食べ物、セックスまで、井戸端会議や食卓を囲んでの会話をオンライン上で自由闊達に繰り広げてもらうことだった。
翻ってスライブ・グローバルの基本的使命は、人々がストレスやバーンアウトを克服し、テクノロジーと、より健全な関係を築けるよう後押しすること。人々が、他の人たちや周りの世界と真に心を通わせ、自分自身の声にも耳を傾けられるようにするためだ。
こうした(起業家としての)経験を経て、私が、より明るい展望を抱けるようになったのは、人々の人生に影響を与えることが、私にとって最も重要かつ充足感を与えるものだからだ。
スライブ・グローバルが、使命の一つとして、サステイナブルなスタートアップを目指している点にも、やりがいを感じる。弊社のようなテクノロジー企業でさえ、社員のストレスやバーンアウトなしに事業を構築できる。スライブ・グローバルの理念を(顧客に対してだけでなく)自社でも実践していくというプロセスが気に入っている。