歪んだテック社会の救世主、異色の経歴を持つ日本人女性

ネストCTO 松岡陽子。シリコンバレー・パロアルトのネスト本社にて。


「ドーパミン・ハイジャック」と孤独という脅威

「フェイスブックのワンダーランドのような本社を見学しても、いま、ここで起ころうとしているヤバイことは見えないよ」。シリコンバレー一帯を取材で回っていると、時々、そんな声を聞いた。

商店街を模したフェイスブックの本社には、ゲームセンターやお土産店やカフェがあり、確かに無邪気なワンダーランドのようだが、最先端テクノロジーの町でhumanityとは違う、もう一つのキーワードを聞いた。それは、「ドーパミン・ハイジャック」だ。

「脳内のドーパミンを分泌させ続けるドーパミンサイクルをベースにしたビジネス」のことで、動画コンテンツなど、広告収入を狙ってユーザーの滞在時間を最大化するため、刺激的で興奮しやすいつくりが主流になっている。

悪意はなくても、それでおカネが回る経済になったため、目移りさせて興奮させることが当たり前の手法として定着している。AIを使うことによってこのビジネスは加速すると言われており、常に脳内がハイジャックされるというわけだ。

また、「孤独感は肥満よりも深刻な脅威になった」と報告するのは、アメリカ心理学会だ。SNSでいつもつながって便利になり、多くのビジネスを生んでいるが、常につながることで逆に孤独に陥りやすくなり、精神のバランスを崩すという。 

あるテック企業の経営者はこう警告した。「シリコンバレーには、テクノロジーの進化で儲けながらも罪悪感をもっている人は多いと思う。だからこそ逆に、人類の本当に役に立つものをつくりたいと思っている人たちも大勢いる。いま、ここで何が起きているかを、ちゃんと見るべきだ」

では、テクノロジーの進むべき道筋を示すことができる人とはどういう人だろうか。話をヨーキーとマットの再会に戻すと、彼女は「マットと会った日にはわからなかったのですが、6カ月くらいかかって気づきました」と言う。 

6カ月間、考え続けた答え──。 その結果となった製品を筆者は体験する機会があった。マットの取材をした日、住宅街にある古い家にエアビーアンドビーを使って宿泊した。廊下の壁にはネストの主力商品であるサーモスタットがあった。

その晩、ベッドから這い出して、何度かトイレに立ったり、台所に水を飲みに行ったりしているうちに、不思議な感覚を覚えた。寒くもなく暑くもない快適な室温は、ネストがセントラルヒーティングを調整しているためだが、廊下で光るサーモスタットを見たとき、家と自分が「同期している」と思えたのだ。

体が体内温度を調節するように、体外温度、つまり室温を体が欲する通りに調整する、私を身体拡張したような家、と言えばいいのだろうか。 

快適さはその人の主観であり、平均化しにくいものだが、家と私がつながり、まるで家が「私」化する。ヨーキーが6カ月かかって気づいた答えとは、「エネルギー制御は、人間と機械の関係性のなかで行う」ということだった。この「関係性」なるものが、新しい時代の答えとなるのか。 

まずは、人間とロボットの関係を考え続けてきた彼女がいかにしてそこにたどり着いたかを見ていこう。


ネストの第一号商品「サーモスタット」。AIで人々の生活スタイルを学び、快適な温度に保ちつつ、消費電力を減らす。

「なりたい自分」を可能にする

彼女は1972年、会社員の父と専業主婦の母の間に、一人娘として東京に生まれた。父親は不動産会社入社後にフルブライト奨学金でニューヨークに留学した経験があり、母親もアメリカでホームステイの経験があり、「アメリカが近い環境」であった。

藤沢にある杉山愛と同じ名門テニススクールに通っていたのだが、母親・瑞子は周囲から「一人っ子なのに、よくアメリカに出したわね」と驚かれたという。その理由について瑞子が興味深い話をする。

「テニススクールで体罰で指導するコーチがつくと、娘の身長と体重の成長がぴたっと止まったことがありました。娘は環境や指導者が合わないと、成績が伸びなくなるのが顕著な子でした。似合う環境を与えるのが親にできることだろうと思っていると、学校の校長先生から、『うちの学校では陽子さんの能力を伸ばしきれません。外に出してみることは賛成です。合わなければ、いつでも戻ってきてください』と言ってくださり、アメリカに出すことにしました。思った通り、水を得た魚のようになりましたね」
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文=藤吉雅春 写真=クリスティ・ヘム・クロック ヘアメイク=ケイティ・ミュラー

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