2017年5月。成田一世(かずとし)は、パプアニューギニア・マヌス州の、電気も水道も通っていない離れ小島にいた。
800以上の部族が暮らし、旧石器時代から時間が止まったかのようなパプアニューギニアは、“地球最後の楽園”などと称される一方で、カカオ豆の産地としても有名である。生産量は、アジア・オセアニア地区ではインドネシアに次いで多い。
マヌス州の本島からボートで2時間のランブーチョ島にわたった成田は、1週間の滞在期間中、発酵槽の中にこもって、およそ600kgのカカオ豆をかき混ぜ、移し替えてはまた元の場所に戻すという作業を毎日行っていた。あまり知られてはいないが、高級なチョコレートはカカオ豆を発酵させてつくられる。成田は自らの手でそれを行っていたのだ。
作業が終わると、島の人と同じく、湧き水で体を洗い、雨水を飲み、バナナや芋を中心とした質素な食事をとり、間借りした民家の一室で雑魚寝する。「カカオ豆の発酵槽に入るパティシエって、僕が初めてだろうな」。真っ赤に日焼けした顔が充足感に満ちていた。
ゼロから価値をつくるために
イタリアの三ツ星「エノテカ・ピンキオーリ」やモダンフレンチの集大成といわしめた「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」などの名店で、成田はシェフ・パティシエとして美食家たちの舌を満足させてきた。
しかし、あるころから壁に突き当たる。品種改良が進み、調理・調味をしなくても甘くおいしい果物。職人の経験が必要とされず、時間と温度さえ設定すればOKの調理器具。進歩がもたらしたメリットは、図らずも料理人の苦悩と結びついた。「すべてが最先端でお膳立てされている現代だからこそ、その真逆に心引かれた。むしろゼロから価値をつくりたくなったのです」
そこで目をつけたのが、発酵で地域固有の個性を引き出し、健康志向の現代に通用するおいしさを提案できる、チョコレートだった。
ここ数年、カカオ豆を仕入れて焙煎・粉砕するところから板チョコレートになるまでのすべての製造工程をひとつの工房で行う、「Bean to Bar(豆から板へ)」と呼ばれるチョコレートが巷で話題だ。これらは主に指定農園などに発酵方法を指示し、その豆を購入するというスタイルを取っている。またBean to Barならずとも、ミルクや砂糖を控え、なるべく豆の自然な味わいを重視する最近の高級チョコレートは、苦味よりも、酸味の強い味わいや香りの複雑さがトレンドだ。
そのバランスを引き出すためには、香味成分を引き出す“適切な発酵”に加え、菌の種類が重要になる。前述の名店で24年間パンづくりも担当し、発酵に精通していた成田はこう考えた。
「カカオ豆の発酵には、どんな常在菌がいるかがカギだ。手つかずの環境が保たれているパプアニューギニアであれば、古代のものに近い常在菌がいるに違いない」