見過ごしがちな「関係性」にラグジュアリーのヒントがある

Exhibition Rusha The Voice of the Daughter(撮影:Mariana Sesma)

ジュリオ・ロマーノはマンテーニャの後の世代になりますが、マニエリスムの代表的存在の1人です。彼の絵画、あるいは彼が設計したテ宮殿を鑑賞しているうちに、マニエリスムってこんなにも心躍るものかと知りました。
advertisement

マニエリスムは「技巧に走った」と言われることが多く、テクニックに溺れるのはどの分野においても末期症状であると認識されやすい。だが、あの人たちは静的なルネサンスのアプローチにもっと動きを持ち込もうとしたのですね。それには遊びが必要だった。
ロマーノによる「巨人族の没落」(撮影:廣瀬智央)

ロマーノによる「巨人族の没落」(撮影:廣瀬智央)

即ち、トリノでバロックの性格をぼくなりに理解したことの源流には「動的」「遊び」への拘りがあったことになります。ルネサンス、マニエリスム、バロックが繋がったと上述したのは、この点への気づきでした。それもマンテーニャの「死せるキリスト」ではなく、ドゥカーレ宮殿の結婚の間にある天井のフレスコ画を見たことで繋がったのです。ラベル付けに振り回されてはいけないと痛感するに至ったわけです。

もう一つ加えるべきことがあります。マントヴァ料理のレベルはとても高く、入ったどこのレストランの食体験には大満足でした。値段もミラノから比べると格段に安く、それでいて抜群の味を堪能できるのですが、芸術鑑賞と食体験の間に境を感じなかったがゆえに、前述のようにアート文脈の理解が進んだ気がします。つまり、建物と絵画だけでなく食事が加わることでより一体感を得られた、それも現代的な創作料理ではないからこそ、です。

くり返しになりますが、海外から集めた作品に埋め尽くされた大きな都市にある大きな美術館の弱点は、往々にして美術館の建物と展示作品のテーマとは関係がなく、さらにその周囲の環境ともつながりがないことです。そうすると、どうしてもラベルを手繰って作品の数々をみることになります。
advertisement

そして、何よりも拙いのは、世界美術史や西洋美術史という文脈だけで作品を見るので流れが歪になるのです。あそこの有名な作品とこっちの有名な作品を一か所に集めて西洋美術史を語るのに慣れていると、美術史上で相対的に低いポイントを見過ごしてしまうのです。ぼくのマニエリスムのように。

何かについて知識をもつことは良いことです。しかしながら、知識を基盤におき過ぎると、知識のないところにある陥穽(かんせい)のサイズが大きくなると思います。それを避けるためには、なるべくローカルの全体がわかる、でもその全体を構成する複数の分野やレベルが重なり合っている物理的な場所での経験を増やすことが大事ではないかと感じます。

ラグジュアリーの論議は、この延長線上にあるものでしょう。

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

タグ:

連載

ポストラグジュアリー -360度の風景-

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事