経営・戦略

2024.07.25 08:00

パリオリンピックは起爆剤、米市場再挑戦の裏にある勝算

エアウィーヴは世界を狙えるポジションまでどうやって成長してきたのか。その軌跡を振り返ろう。

スタートアップの多くは、まずゼロイチで苦労する。しかし、同社はゼロどころかマイナスからのスタートだった。高岡は配電用機器メーカーの日本高圧電気の2代目社長だった。創業者の父から会社を継いだのは98年、37歳のとき。2004年、従業員数300人の会社を切り盛りしていたとき、伯父から経営する赤字の会社を引き取ってほしいと頼まれた。それがエアウィーヴの前身である中部化学機械製作所だ。

中部化学機械製作所は釣り糸や漁網をつくる機械を製造していた。ただ、本業の配電用機器とのシナジーは期待できない。赤字なら清算も視野に入るはずだが、そこは高岡家の精神が許さなかった。

「実は祖父も起業家でしたが、うまくいかずに放り投げた過去があります。その姿を見ていた父や伯父は、『会社はつぶしちゃいかん』が口癖。引き継いで黒字にするしか選択肢はありませんでした」

当初は釣り糸の製造技術を生かして糸状のポリエチレン樹脂を固め、衝撃吸収材や寝具のスプリングの代替材として売ることを考えた。しかし、素材として売るだけでは黒字化が遠い。そこで開発したのが、樹脂の反発力を生かした寝返りを打ちやすい寝具だった。

「寝具事業を黒字で回すには、売り上げ30億円前後は欲しい。まずはその規模まで事業をつくることが目標でした」

研究開発に3年かけ、07年にマットレスパッドのエアウィーヴの販売を開始。しばらくは売れない時期が続いたが、4年目にようやく黒字になった。

「急成長すると大手がつぶしにきます。そうなると30億円規模でも危うい。守るためには攻めなきゃいけないと考え、マーケティング投資を増やしました。社会的な認知を得たのは、13年に日本オリンピック委員会(JOC)とオフィシャルパートナー契約を締結したあたり。売り上げも93億円に達して、やっと経営の基盤ができました」

米市場失敗で得た教訓

次の攻め手は海外だった。高岡は20代で家業に入ってすぐスタンフォード大学に留学し、世界に触れた。その経験から、「いいプロダクトがあるなら、それを世界に広げることが事業家としての社会貢献」という信念をもっており、エアウィーヴが軌道に乗る前から海外のカンファレンスに顔を出してきた。

しかし、これが失敗に終わる。15年にニューヨークに路面店を出したものの2年で撤退を余儀なくされたのだ。

「16年のリオ五輪に合わせて展開しようと急いだため、現地のマネジメントを育てるところまでいけませんでした。また、ブランド認知は空中戦でできても、高級な寝具は実際に店頭で試して納得してもらえないと売れません。店頭での情報価値を伝えるところも不十分でした」

実はもうひとつ大きな敗因があった。日本は布団文化なので、マットレスの上に敷く薄いパッドにお金をかけることにそれほど抵抗はない。一方、アメリカはベッド文化。パッドではなくマットレス自体で戦わないと、そもそも市場で存在感を示せなかったのだ。

海外にリソースを割いたため、国内事業も伸び悩んだ。経営建て直しのために、初めてエクイティで資金調達も行った。
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文=村上 敬 写真=ヤン・ブース

この記事は 「Forbes JAPAN 2024年9月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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