「美」は、ステレオタイプを乗り越えた先にある?

Ipsum Alii 創業者であるキコック・ヴェオプラセウトとノラ・カトウ

ステレオタイプはおよそ否定的に捉えられることが多いです。「日本人は……」「アメリカ人は……」と一律であるわけはないし、「平均的」や「国民性」という表現が適当ではないと思うことが多々あります。そこをやや歪に「典型的」なモデルを設定するのがステレオタイプです。
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しかし、「それぞれ人は違う」を基本とすると、具体的にある市場で何かをする際に一歩踏み込むことが難しい。ある程度の枠組みを、あるいはひとつのイメージを拠り所に前進するしかないことが往々にしてあります。その場合、ステレオタイプはまんざら悪くありません。国際交流の会話のきっかけにもなります。超えるべき存在としてのステレオタイプはアリなのです。

結局のところ、ステレオタイプが問題にされるのは、ステレオタイプにある惰性に馴れ、そこを踏み台とすることができないケースが目立つからでしょう。「美は自分の考えの確信のために貢献する」と気がつくには、それなりの経験を経ないといけないのです。

さて、このあたりで商品企画の話に移すと、ステレオタイプを使うのは、さほどコストをかけずに認知度があがるだろうと皮算用するからですね。皆が知っていると想定される枠組みを示しておけば第一歩はクリアするはず、と期待する。しかしながら、その手法は多くの競合他社も使うので、市場であまり目立つことがないとの落とし穴に陥る可能性も高いです。
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また、前述したように、ステレオタイプ的認識に留まる人が圧倒的に多いので、商品コンセプトは誤解されたまま、本当に伝えたい微妙な部分は削ったままで広まっていく。これは事業開発者にとってはとても迷うところです。市場での量を求めるなら半ば目を瞑ってステレオタイプを使いますが、質の評価を第一優先にするならばステレオタイプを選びません。

ここで連載の本題です。

実は、このステレオタイプの選択の仕方がラグジュアリーの新旧を分けるのではないかとも考えています。旧型ラグジュアリーは自らの歴史的伝統を謳いながら、その伝統が依拠してきた、加えて伝統が形成してきたステレオタイプを過剰に使おうとする。これでもか、これでもか、というぐらいに。

それを有難がる人たちもいます。それで、市場にも企業にもやや中毒症状が生じる。これがラグジュアリーの量産現象を加速させるのです。

他方、新型とはステレオタイプとは縁を切ろうと腹を括ったものである……という言い方ができるのではないかと思います。すると、自ずと表現方法も含めてメッセージは「クリーン」になる。クリーンであろうとの意思と、クリーンでしか表現できないとの事情、これらの2つが重なり合うのです。

ぼくは想像するしかないのですが、前澤さんの関わったIpsum Aliiも、昨年から喧伝されるクワイエット・ラグジュアリーも、ステレオタイプと距離をもつと決意した企業たちの試行錯誤のありようであると考えられないでしょうか。「美は自分の考えの確信のために貢献する」との思いが血肉となった人たちの歩み方が、ここにはあるように思えます。

文=前澤知美(前半)、安西洋之(後半)

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