正確にいえば、ぼく自身がある時、「美は自分の考えの確信のために貢献する」と主張する人の意見に大いに納得したのです。そう主張するのはバルト三国の一つ、リトアニアのカウナス工科大学のデザインセンターを引っ張るルータ・ヴァルシテです。彼女の意見にはリトアニアの事情が絡んできます。
リトアニアは冷戦終焉後、旧ソ連から独立を果たした最初の国ですが、90年代はモスクワとの旧態依然たる関係を相変わらず断ち切れません。正真正銘の民主主義体制になったのは今世紀になってからです。これがバルト三国で同じように独立して新たな国家づくりに即着手したエストニアと異なるところです。
今世紀、リトアニアは新しい社会を築く最低条件が整ったにも関わらず、国民一人一人の動きが鈍い。そもそも、これからの社会のビジョンを描く力が乏しい、とルータは感じます。
旧ソ連時代、雑誌に使われるフォントから街づくりに至るまで、すべてのデザインは公的委員会によって判断され実行されていました。したがって国民がものごとを「これは美しい」と評し、「あれをもっと美しくしよう」とする動機がなかったのです。
美の力を伝えるデータ
この美意識の欠如と社会ビジョンの乏しさの両者に関係があるのでは? とルータは考え、ひとつの試みを大学ではじめます。デザインライブラリーを設置したのです。それなりのセンスの良い空間にデザイン関係の書籍や質の高いモノをおき、定期的にデザイナーなどが講師になるワークショップを開催します。そうして参加者にアンケートに答えてもらうのをくり返していると、参加者たちが美しさに敏感になっていくにつれて、自分の考えに自信がもてるようになったのが分かったのです。「美は自分の考えの確信のために貢献する」という意見は、このような経験とデータに基づいたものでした。
実は、リトアニアのデザイン史の資料にある70年頃の作品をみると、工業製品にせよファッションにせよ、かなり当時の西ヨーロッパに近いデザインレベルを感じるものがあります。カウナスの次に首都・ヴィリニュスにあるアートの大学を訪ねたとき、そこの研究者がぼくに「リトアニアにも良いものがあったのですよ」とそれらを紹介してくれました。
後になってこの話をルータに話すと、「あれは西側にミッション団をおくり、当時の流行りものを真似して『我々もイケている』と宣伝するプロパガンダでした。そういうのをデザインとは言わない」と即座に言われました。
美がもつ意味をリアルに認識させてもらった、今から6〜7年前のエピソードです。また、このプロパガンダという指摘は「ステレオタイプとは?」を再考する契機にもなりました。プロパガンダは政治的な意図をもったメッセージですが、ステレオタイプも同様に意図的なものと考えられるのです。