父がプログラマーとして自分の道を歩んでいた佐々木を呼び出したのは2006年。胃がんの手術をした直後だった。「もともと息子に継がせる気はなかったようですが、会社の売り上げ9億円強なのに、個人保証付きの借り入れが8億8000万円あった。『身内以外に押し付けられない』と私が呼ばれたのです」(佐々木)
翌年に父が他界し、34歳の佐々木が社長に就く。現場経験のない若い社長に不安を覚え、約2割の社員が辞めた。その前から業績は低迷しており、新社長には多難な船出だった。
ただ、父はその後のアムコン躍進の原動力となる置き土産をしていた。海外拠点の設立である。
汚泥脱水機の中心的な顧客は、下水処理施設を運営する自治体だ。ヴァルートは、特に地方の自治体で普及が進んでいた。ただ、日本は次々にインフラが新設される時代ではない。それを見越して、父は中国人留学生数名を採用。海外進出の第一歩として中国に拠点を置く準備をしていた。その最中に亡くなったが、佐々木は事業承継の混乱にあっても計画を変えるつもりはなかった。
「実は昔うちにいたひとりが勝手に向こうで事業を始めてしまって。後れを取るわけにいかず、組織を立て直すのと同時並行で海外展開をスタートさせました」(佐々木)
先代が50歳で事業承継した理由
アムコンは2007年に中国、11年にチェコに現地法人を設立して海外展開に力を入れ始める。この流れで入社してきたのが現社長の相澤だ。相澤は学生時代にバックパッカーとして世界を3周した。グローバルで仕事をしたくて、鉄鋼メーカー、商社の資源エネルギー系部門に勤めた後、MBA留学。帰国後にコンサルに転職して30代前半は多忙な毎日を過ごしたが、「他社の経営に第三者としてアドバイスするだけでなく、主体的に主人公のひとりとして働ける環境で仕事をしたい」と転職活動を始めた。相澤はコンサルらしく、転職先候補を20項目で採点して比較した。候補は大手ばかりだったが、たまたま求人票を見て候補に入れていたアムコンが総合2位に入った。海外営業の一担当者として応募したが、面接を受けると「太平洋地域全体を見てほしい」と告げられた。「アメリカ、カナダ、南米、東南アジア。パプアニューギニアやドニミカ共和国の名前まで出てきて、商社よりずっとグローバルでした。正直、プロダクトは地味。でも、それを上回る魅力がある会社だと思いました」(相澤)
転職半年後に任された南米のとある国の下水処理施設のコンペで、中小企業で仕事する魅力にも気づいた。3500万円の最大機種を納品できる大型プロジェクト。当初はサポート体制への不安から「その国で製造されたものでないと無理」と言われていたが、見せ方を考えていろいろ工夫したところ勝ち取れた。
「大きな組織だと歯車として動かざるをえませんが、アムコンは入社間もない自分に思い切って任せてくれた。実は契約後にトラブルがあって、結果的には会社に迷惑をかけた。そうした失敗も含めて、自分の責任でやらせてもらえる環境がありがたかったですね」(相澤)