徹底した現場主義で課題解決
もうひとつ驚かされたことがある。服部が「コーワは創業以来、商品カタログをつくっていない」と言ったからだ。それでも業界トップになれた理由をこう紐解く。「徹底した現場主義だからです。弊社のブラシは営業の人間が現場に足を運び、お客様のニーズを聞き取りながら開発・製造しています。ほとんどが一点ものです。社員がその場で図面を描いて、翌週には製品を3つもち込むような仕事をしています」
決して下請け的な仕事はしない。それを支えるのは知財を含む圧倒的な技術の蓄積とメーカーとの信頼関係だ。
「コーワの作業服を着ていれば、よその工場でも現場に入らせてもらえることがある。それくらい関係性が近いんですよね」
現在、同社が保有する特許、実用新案など、保有する知財は150件以上にのぼる。間に商社を挟むことなく、独自の提案をして直接取引をするのが創業以来の社風だと服部は胸を張る。
コーワを語るうえで外せないのが、50年以上前から国内の家電メーカー各社と協業して進化させてきた掃除機ノズルだろう。「大手メーカーが初期の掃除機をつくるときに、ブラシ屋として弊社に相談をもちかけられたのが発端です」。そして服部はこう続ける。「ローター部分になる樹脂やアルミの素材をひねりながら押し出して、らせん状にブラシを植毛する技術のパテントを取りました。そこからは日本のほとんどの家電メーカーの掃除機ノズルとブラシをつくらせていただいています」
しっかり権利を固めたうえで提案することにより、コーワの存在は盤石となった。ブラシには硬い毛材もあれば柔らかい毛材もある。ブレードの上にミシンで生地を縫い込み、たたきながら磨くブラシもある。日本のクリーナーの進化はコーワのブラシとともにあるといってもいい。
社内の展示コーナーでブラシを手にとって説明する服部は、経営者としての自信に満ちあふれて見えた。しかし、ここまでの道のりは平坦ではなかったという。
娘婿として承継後、ブラシ事業に集約
服部は学生時代、アメリカンフットボールに没頭した。大学卒業後に就職したのは「ナゴヤドーム建設準備協議会」。一からドーム球場をつくるというスポーツ興行の世界に胸を躍らせて飛び込んだ。「創業者の孫で3代目社長になる予定の妻とは恋愛結婚をしていましたが、自分が製造業をやるつもりはまったくありませんでした。ところが2001年に先代社長の義父が急逝したことで妻が社長になり、私も入社することになったんです」
当時のコーワはブラシ事業だけでなく、さまざまな分野に投資をしていた。代表的なものがアメリカでのゴルフ場開発で、銀行から巨額の借り入れがあった。ほかにも複数の広大な土地を所有し、マリーナ、温泉、ボウリング場などのレジャー産業から貴金属販売、女性化粧品まで手がけていた。
「ブラシの営業ベースで見れば優秀な会社でしたが、バランスシートで見るとバブルの典型のような会社でした」
当時は銀行が不良債権を一気に処理しようとしていた時代だ。服部は最初の1年間のほとんどを資産売却と整理に費やした。残したのは本業のブラシ事業と研究開発機能のある化粧品事業だけだ。つまり、一時期、コア・コンピタンスとは無縁の事業に拡大したことによって、競争優位の源泉である「きれいにする」ことに再度集中したのである。