秋田の夏に「赤黄のパラソル×おばあちゃん」。児玉冷菓ババヘラアイスの危機

読むふるさとチョイス

(本稿は「読むふるさとチョイス」からの転載である。)


秋田県の夏といえば、赤と黄色のパラソルの下におばあちゃんが立ち、その手でコーンにアイスを盛って渡してくれる。この風景を思い出す人は多いと思う。秋田の夏の風物詩、ソウルフードとして知られるババがヘラで盛る児玉冷菓のババヘラアイス。今年、創業75年で株式会社児玉冷菓として法人化をした専務取締役の児玉勇雅さんは、実は就職で県外に出て初めてこのアイスの知名度を知った。そして同時に、曽祖父の発明したこの風景は守らないと消えてしまう状況に直面してることに気がついた。

アパレル業界から一転、家業を継いで全力で走る28歳。まったく考えていなかった未来は「何でもできる、何でもやれる」。

東京で初めて知った、実家のアイスの知名度と風景の貴重さ


ファッションが好きで、秋田の大学を卒業後にアパレル業界に入った勇雅さん。この頃までは「実家を継ぐ」という考えは全くなかったのだという。あまりにもアイスやパラソルが身近にあって、興味を持つきっかけもなかったのかもしれない。しかし故郷を離れた都市に出て、むしろその可能性に気付かされた。

「児玉冷菓」専務取締役の児玉勇雅さん(写真左)

「児玉冷菓」専務取締役の児玉勇雅さん(写真左)


「ファッション、服が好きで前職はアパレルの仕事でした。しかし秋田から遠く離れた東京や大阪に出たことで知ったのが、私が見慣れていたはずの“ババたちがパラソルの下でアイスを売っている”この夏の秋田の風物詩と言われる光景の知名度でした。いざ都会に出て、実家のすごさに初めて気づかされたのです」

勇雅さんの曽祖父が、秋田で初めて「児玉冷菓のババヘラアイス」としてパラソルを立てアイスを運んで売った、今のスタイルの元祖であり、販売方法を広めた最初の人だった。

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勇雅さんは商売をしている実家の影響か、将来的に自身で商売をすることや起業に興味を持っていた。そしてアパレルの仕事の傍らで経営やリーダーシップを学んでいた。そして、ここにきて実家の状況に改めて興味を持って第一に危機感を持ったのが「アイスの作り方を知っているのが、父しかいない」。曽祖父から祖父に、そして父に受け継がれてきたため、0から100まで作ることは工場の人にはできない。つまり父以外、誰にもできないのだと気がついた。

「普通の会社で働いてきたからこそ、危機感を持ちました。父に何かあったらうちの家業は終わってしまう。以前にも実際、もう長くはないし(家業は)閉めるかとかいう話もありました。せめてアイスの作り方を知っていれば何か可能性は残せるだろうと考え、会社を辞めて秋田に戻ってきたんです。その時は、アイスの作り方を覚えたら東京か大阪に戻るつもりでいました。しかしいざ、秋田に帰ってきて客観的に弊社を見直して、“もう改善するところしかない”という現状に気づいてしまったのです」

勇雅さんが戻ってきた時、アイスの仕事は4月から10月までしか働かない慣習だった。残りの半年はオフだったり他の仕事をしている。昔はそれで成り立っていたが、もうそんな時代じゃない。企業で働いていたからこそ「ありえない」と思った。

「冬はアイスをストックしたり、新商品の開発に充てたりしました。新しいフレーバーや、秋田県産のメロン、梨を使ったアイスの試作もしました。その際に地元の農家さんからも味は美味しいハネだし(見た目の揃わないB級品)の果物を買い取れます。助け合ってフードロス問題も解決できます」

就職をして、組織での仕事や経営を学んできた勇雅さんには、昔ながらの売り方で回している事業の穴がたくさん見えた。同時に「やるべきこと、やれることの可能性」も限りなくたくさん目に入ったのもこの時だった。
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文=畠山美咲 写真=菅野証 Sho SUGANO/PHOTOX

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