翌11年の女子W杯ドイツ大会で、なでしこは優勝という偉業を成し遂げる。チーム最年少の18歳だった岩渕は、大会得点王とMVPをダブル受賞した澤のまぶしい背中を介して、代表の「10番」の偉大さを目の当たりにする。
さらに12年のロンドン五輪、15年の女子W杯カナダ大会と、なでしこは連続して銀メダルを獲得。世界の強豪に躍り出たチームの一員に岩渕も名を連ねた。そしてカナダ大会を通じて、澤との距離を急速に縮めていった。
ともにベンチスタートが多かった2人は、決まって隣同士で座りながら、チームの戦いを見守った。当時22歳の岩渕は澤と共有した時間をこう振り返っている。
「いろいろとしゃべりました。サッカーのことだけじゃなくて、サッカー以外のことも」
10番と澤と自分
カナダから帰国した直後。ある雑誌の企画で澤と対談した。話が盛り上がるなかで、澤は15歳も年が離れた可愛い後輩へ願いを託している。開催が決まっていた東京五輪でなでしこの「10番」を背負い、キャプテンを務めてほしい――と。そのときは「自覚と責任、目標を持ってやっていきます」と返した岩渕だったが、約5カ月後に澤の真意がわかる。15年シーズンをもって澤は現役を引退した。対談で投げかけられた言葉には、バトンタッチの思いが込められていた。
澤の現役最後の試合となった同年12月末の皇后杯決勝。戦いの場をドイツへ移していた岩渕は一時帰国して、澤が最後にプレーする姿を記憶に焼きつけた。そして自身のブログに「澤さんと交わした約束守らなきゃ」と綴り、さらにこう続けた。
「なでしこが認知されるまで、私が知らない時代から、女子サッカーってものをいろんな先輩と共にここまで築き上げてきてくれた澤さん。それをしっかりと継続できるように……女子サッカー選手の一人としてしっかりと未来に繋げていかなきゃなと感じています。大好きで偉大な澤さんに一歩でも近づけるように私なりに頑張ります」
しかし、なでしこはアジア予選で敗退し、翌16年のリオ五輪出場を逃す。指揮官が佐々木則夫から、高倉麻子に代わったなでしこのプレゼンスも徐々に低下していき、19年のW杯フランス大会ではベスト16での敗退を味わわされた。