筆者も登壇者の1人として話をしたが、テーマは「池袋はいかにして『ガチ中華』の街となったか」であった。
実は、筆者は学生時代から池袋と縁があり、今日からみるとプレ「ガチ中華」の時代とでもいうべきこの街の1980年代から現在に至るまでの変遷を観察してきた。そのことを学生たちに話そうと思ったのだ。
中心は大久保界隈から西池袋へ
1980年代、当時、大学で都市社会学を専攻していた筆者の地域社会調査の舞台は、豊島区東池袋の4丁目と5丁目だった。山手線内側に位置する東池袋は、戦前期には都心からしめ出された刑務所や細民街が立地していた経緯があり、戦後は1960年代以降の高度成長期に地方から上京してきた若年労働者の受け皿となった。
1980年代になると、地方出身者に代わって、韓国やフィリピン、バングラデシュなどのアジア系ニューカマーが住み始める。同じことは新宿区の大久保でも起きていたが、いずれも繁華街に近く、就労先がそばにあることと、単身者向きの家賃の安いアパートが密集していたからである。
郊外が拡張していく戦後の東京において、池袋は都心にありながら、ニューカマーの受け皿となる地域の1つだったのである。ちなみに中国国籍の人たちが多数来日するのは1980年代後半からで、筆者の在学中だった1980年代半ば頃には彼らはまだいなかった。
「ガチ中華」の母体となる中国語圏の人たちの料理店が都内に現れたのは、1990年代半ばくらいからである。最初に出店があったのは、当時から「コリアタウン」と呼ばれていた大久保界隈だった。
実は、筆者のゼミの後輩に、大久保の中国人経営の飲食店でアルバイトし、経営者や従業員たちの行動様式や社会的な関係、規範、価値観といったことを「参与観察」しながら、修論のテーマとしてまとめた学生がいた。これは1920年代の米国シカゴにおけるイタリア移民研究の調査手法にならったものだった。
ところが、その後、中国の人たちの活動の場は池袋へと移っていく。その頃から池袋が在日中国人向けのビジネスの町になり始めていたからである。
1つのきっかけとなったのが、1991年に歓楽街として知られる西池袋に中華食材店の「知音(現友誼商店)」と「陽光城」がオープンしたことだ。1990年代初頭、日本で暮らす中国籍の人たちは約17万人と今日ほど多くはなかったが、故郷の食材が買える唯一のスポットとして首都圏近郊に住む人たちが買い物に来るようになった。
興味深いのは、こうして中国系の人たちが西池袋に集まり始めると、彼らはそこで同胞向けのビジネスを始めたことだ 。
たとえば、帰省用の格安航空券を販売する旅行会社や中国語書店、求人案内や広告を収益源とする中国語新聞社などが続々と現れた。