それから8日間、いつも家族全員で枕を並べて寝た。買っておいたおもちゃをすべて開封し、返事がないと分かっていても「世界一、大好きだよ」「パパとママのところに生まれてきてくれてありがとう」と何度も声をかけた。宝物のようなかけがえのない時間だった。
亡くなる前夜、佐知ちゃんの唇は「だ・い・す・き」と確かに動いた。
この経験をもとに、正輝さんは夏休み明けの校内弁論大会で、妹の闘病をテーマに話し、4位入賞した。内容を両親と話し合い、思い出を語り合って涙を流し、原稿を仕上げる作業が、親子関係のわだかまりをほぐしていったという。
一周忌を終えたころ、正輝さんは「さっちゃんが入院してから、ぼくもさみしかったよ。小学校3年生からもう一度やり直して、甘えてもいいんだよね」と晃子さんに言って、ハグしてくれるようになった。
「こどもホスピスがあれば、もっと楽になれたかも」
昨年11月、晃子さんは名大病院のスタッフから、こどもホスピスづくりの運動への参加を誘われた。国内では、独立型のこどもホスピスは、横浜と大阪にしかないが、その活動が共感を呼び、各地で勉強会が開かれるなどして、設立を目指す動きが広がりつつあった。だが、医療機関ではないため、運営は寄付が頼り。建設だけで数億円の費用がかかるなど実現へのハードルは高い。
でも、嵐のような3年4カ月の中で、晃子さんが苦しんできたことの答えが、そこにあると思った。
自身の心に余裕がなくて、佐知ちゃんを小さなことで叱ってしまい、佐知ちゃんが親の顔色をうかがうようになった時もあった。病院の遺族会でそんな罪悪感を語ったら、同様の体験をした親たちが珍しくはないことを知った。
「治療のためにと、我慢させることばかりだったけれど、佐知はどんな状況でも、楽しむことを模索してきました。こどもホスピスのような場所が身近にあったら、豊かな時間をもっとたくさん過ごせただろう、私たちの気持ちもずいぶん楽になっただろうって思います」
名大病院小児科は、入院中の子どもたちが遊んだり、学んだりすることをさまざまな形で応援してくれたが、それでも、病院の中では限界がある。
正輝さんのような「きょうだい児」が、「支援の必要な存在」とされていることも、こどもホスピスの勉強をして初めて知った。「情けない」と腹を立てたりしていたことを晃子さんは反省した。
いま、晃子さんは勉強会で佐知ちゃんのことを話す機会も増えた。涙を浮かべる聴衆たちの姿に思いを強くしている。
「私の残りの人生、これに賭けるのも、ありかな」と。空から、佐知ちゃんが見守ってくれてるようだ。