人に自身の欠点を晒さらした本田に対し、藤沢は自らの欠点をできる限り隠そうとした。
「課長、部長、社長も包丁も盲腸も脱腸も皆同じ。単なる符丁なんだよ。俺なんか一度だって社長印を押さなかったんだから、完全にクビだな」
こう公言していた本田だったが、事実、ホンダの発行する小切手や手形はふたりが引退する前日まで「代表取締役 藤沢武夫」の名前で切られていた。かといって、本田が藤沢の意のままにされていたわけではない。
「ホンダは俺が興した会社だ。何か文句あるか?」本田の創業者意識は強烈で、酒が入れば決まってこう気炎を吐いた。そうした天真らんまんな天才技術者、本田を藤沢は資金繰りだけでなく、全身全霊をかけて支えた。
朝鮮戦争(1950年)が勃発するや、特需を見込んだ藤沢は東京都北区に450坪の土地を手に入れる。事前に本田に相談することはなかった。直前まで経済不況でモーターサイクルの売り上げは落ち込み、経営状態が厳しさを増すなかで、資金が潤沢なわけでもなかった。特需を見込んでの藤沢の勝負だった。
このころの藤沢は、詐欺と泥棒以外は何でもやったといわれるほど資金手当に奔走する。
しかし、朝鮮戦争の特需ブームで日本経済はもち直し、ホンダの売り上げも軌道に乗り始めた。この土地が「本田技研工業 東京工場」となり、工場はフル稼働し、ホンダ発展の基礎となるのだった。
1966年に軽乗用車、N360を発表し、本田の長年の夢だった、自動車に進出したホンダ。藤沢は先行する「トヨタ自動車」や「日産自動車」にはない、ホンダならではのストーリーづくりに腐心する。
“脚本家”藤沢が考えたのが、「自由闊達」と「若々しさ」だった。
さすがに社長には個室が与えられていたが、扉は常に開け放たれていた。役員たちは、大部屋で過ごした、空いている席が、その役員の席だった。開け放たれた部屋で役員らは過ごし、部下たちが訪ねてくれば、そこで議論が始まり、たちまちほかの役員らも巻き込み、議論が沸騰した。
ホンダを象徴していた“ワイワイガヤガヤ”の議論、つまり“ワイガヤ”はこうして生まれた。役員らの子弟を入社させないのも藤沢のシナリオだった。他社にないホンダの若々しさ、そして清新さは天才、本田に惚れ込んだ男の手によってつくられていった。
藤沢武夫 年譜
1910 東京都に生まれる。
1923 関東大震災で父の会社が焼失、宛名書きの仕事を始める。
1930 徴兵、1年間軍隊生活
1934 三ツ輪商会に入社、売り上げ成績トップに。
1939 日本機工研究所を設立。
1942 切削工具の製品化に成功、三ツ輪商会を退社。
1945 福島県に疎開。
1949 本田宗一郎と対面、本田技研工業の常務取締役として参画。
1952 大衆向けの自転車用補助エンジン、カブF型が登場、販売網を開拓。
1954 マン島TTレース出場宣言。
1964 副社長就任。
1973 本田宗一郎とともに現役引退。
1988 78歳で逝去。
児玉 博◎1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。2016年、『堤清二「最後の肉声」』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』の ほか、『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』『堕ちたバンカー 國重惇史の告白』など著書多数。