私が尊敬するのは……
本田技研工業 藤沢武夫さんです。
尊敬する経営者とは? 不思議に思い浮かんだのが藤沢武夫でした。
本田宗一郎の名参謀として有名ですが、私とはもちろん、やっている分野も時代も性別もまったく違います。本でしか存じあげないこの方は、しかし、私のなかでは最も「いま風の」尊敬すべき経営者だと思います。本田宗一郎というタレントを最高に花開かせる資金繰り、組織づくりに、最高のタレントを見つけ最高に輝かせる力。これこそいまの時代に求められる経営ではないでしょうか? たいまつをしっかり自分の手で持ち、足元からその進むべき先まで照らす。
最後にホンダの社長は技術者であるべきという会社のかたちを自分がいなくなってからの道程として言い残しました。私にとっては最高の経営者です。
山崎貴三代◎ヤーマン代表取締役社長。大学卒業後、ヤーマンに入社。マーケティング部門や海外部門を経て、1999年より現職。業務用美容機器から家庭用美容機器へと転換を図り、独自の技術力で市場を切り開いてきた。常に新たな市場を創造していくことを志し、「美顔器のヤーマン」として、「フォトプラス」シリーズ、「ディリフト」シリーズなど数々のヒット商品を世に送り出し続けている。今年45周年を迎える同社は海外展開を強化している。
戦後、小さな町工場から会社を興し、後に世界企業となった代表格といえばソニーと本田技研工業(以下、ホンダ)だろう。ソニーをつくり上げたのが盛田昭夫と井深大のふたりだったように、ホンダを世界のホンダに仕上げたのは本田宗一郎と藤沢武夫だった。
藤沢は、天才技術者、本田を支えた名参謀という評価が定着している。確かに、そうした一面も強かった。けれども、藤沢の資質はそれでだけでは収まらない。
「ホンダの経営を担ったのは私でした」創業者であり、社長である本田宗一郎の耳に入るように言ってはばかることのなかった藤沢。ここだけ取り出せば、藤沢の剛直さ、揺るぎない自信を嗅ぎ取ることができる。だが、藤沢の奥深さはその先だ。自らが経営者と言う藤沢にこう聞いた者がいる。「ではなぜ藤沢さんが社長をやらなかったのですか?」
当然の疑問であり、質問だった。藤沢は言下に言うのだった。
「私に社長が務まるか? それは無理。私には社長は務まらない」
その理由とは、自分は理詰め過ぎるから、というものだった。
何事にも理詰めで、時には相手をとことん追い詰めてしまう。だからこそ、社長に進言も忠告もできた。しかし、それでは社長は務まらないと藤沢は言うのだ。
藤沢の視線の先にいたのは、いつも呵呵大笑している、そう、あの天才、本田宗一郎だった。ある意味、藤沢はその初対面の時から、本田宗一郎という天才に“恋した”ようなものだった。
全く正反対のキャラクター
本田が静岡県浜松市に「本田技研工業」を設立したのは昭和23(1948)年。自転車用補助エンジンを開発する会社だった。従業員34人。資本金100万円。地方の小さな町工場だった。その翌年、藤沢は本田に会う。ホンダ初の本格モーターサイクル、ドリームD型発売直後だった。その場でふたりは、いかに正反対のキャラクターであるかを理解し合う。
万事に開けっぴろげで、社交的。軽口をたたけば、際どい発言を平気でした。しかし、高等小学校を卒業後、でっち奉公で実社会の辛酸をなめていた本田は人に好かれる術を熟知していた。