「アイデンティティ」と「ナルシシズム」は違う
柳澤:カルト化に陥らない、健全な社会的アイデンティティをもつことも可能だということですね。一方で、私は日本の国民としてのアイデンティティが、弱まりつつあるとも感じています。少子高齢化の加速、海外移住の増加による人口の減少、不安を抱えた多くの人たちが自己の利益にしか関心をもてずリバタリアン化するなど、その傾向が顕著になってきています。自己犠牲もまた集団への帰属意識に由来すると先ほどお話ししていましたが、2021年の世界価値観調査では、日本は「国のためにあなたは戦えますか?」という問いに対して、「Yes」と答える人が64カ国中最も少ない国でした。
ヴァン・バヴェル:そうなのですか、驚きました。
柳澤:先の大戦で敗戦し、戦争にまつわる諸問題を徹底して議論できなかった日本では、いまだにナショナリズムや集団主義を絶対的に悪だと考える人が多い。それも影響しているのかもしれません。例えば、22年のサッカーのW杯で日本代表が勝利した際に、リベラル派の人たちが街中で集まって喜んでいる若者たちを批判したこともありました。ただ私自身は、国に対する社会的アイデンティティを否定しすぎることもよくないように思うのです。
ヴァン・バヴェル:国に対して強い社会的アイデンティティもつこと自体は悪いことではありませんよね。国家に帰属意識をもつ「国家的アイデンティティ」と、自分の国は他国よりも優れているという考え方に執着する「国家へのナルシシズム」は別物です。
国家的アイデンティティが強くても、自国に対するナルシシズムが低ければ、健全な価値観を保っていると言えるでしょう。そうした人は母国をとても大切にしますが、争いや差別、他の集団への支配的な行動はせず、平和的に振る舞う傾向にあります。
オリンピックを例に考えてみましょう。多くの人々が自国の旗を掲げて強い国民性をむき出しにするオリンピックでは、激しい競争を繰り広げて肉体的にも衝突します。しかし、人々はルールにのっとって助け合っている。例えば、誰かがけがをすると、試合を止めてでも他国の人たちが助けます。国家的アイデンティティは対立や摩擦、差別を生むと考えられがちですが、オリンピック精神という伝統の下では、健全な競争が行うためのルールや価値観とも両立できるわけです。
柳澤:理想的な集団のモデルとして、スポーツの比喩は非常に適切だと思います。国やチームに対する強い社会的アイデンティティがあるからこそ、人は勝利だけでなく、よい競争を実現したくなるわけですよね。プレイヤーと個々のチームのファン皆がルールを守ることで競争が健全に機能し、しかもその競争のなかで全員がシンクロすることで脳の報酬系も働き、喜びが生まれる。
反対に個々の試合、競争が健全に機能しないとスポーツ自体が成り立たなくなります。こうしたスポーツ・モデルは、ビジネスや学問業界、資本主義社会の競争にも当てはまりそうです。