毎週、楽しみに愛読しているコミック「キングダム」。春秋戦国時代の中国の歴史を描いた同作のワンシーンで、主人公である李信に、韓の法家である韓非子が投げかける問いが、冒頭の言葉だ。
ただ、常々この問いには釈然としない思いを持っていた。「性善説・性悪説」という概念を初めて知ったのは中学に通っていた頃だったと思うが、その時から「そりゃ、善なのか、悪なのか、その人が置かれている状況次第で変わるだろう」と。
そんな釈然としない思いを抱きながらも忘れかけたころ、飲み会で先輩から得心する考えを聞くことができた。
「性善説でも、性悪説でもなく、性弱説なのではないかな? 人は生きながらにそんなに強くはないものだよ」と。
人は善なれど、生きながらにして弱いのか。
具体的に想像してみた。とてもお腹が空いていて、食べるものがない。目の前に美味しそうなご馳走があったらどうするか? きっと、私は「盗むことは悪である」と頭では理解していても、目の前にあるご馳走にありつこうとするだろうと。つまり、私は「性弱」である。
大企業病は「性弱説」の帰結
では、なぜ人は性弱説的な特性を持っているのだろう。物思いに耽るなかで個人的には納得のいく1つの答えに行き着いた。
人間も動物的な側面を持っている。生物が持つ生存本能として、生存が脅かされると生き残ることを最優先に行動するのだと。そのような状況では道徳や倫理、法律を超えて、生存に利する利己的な行動をするのだなと思い至った。
こう考えると、飢餓に苦しみ、食べ物を盗んでしまう人を責められるだろうか。生物としての生きることを願っているだけなのに。
性弱説に触れることで、個人としては大きな変化があった。私自身のこと、他者のことであっても一見必ずしも善に思えない行動、有り体に言えば、意地悪な行動も、自然と許せるようになったのだ。
「あぁ、そうか。きっと彼や彼女も弱っているのだな。自分も同じ状況であれば、同じ行動をするかもしれない」と。弱さに基づいてある種の共感をできるようになり、対人ストレスが大きく緩和したのを、いまでも憶えている。
また、組織に対する見え方も変わった。
組織は往々にして「大企業病」と揶揄される問題に苦しんでいる。噛み砕いて言えば、組織における全体最適をメンバーが目指すのではなく、自分が所属する小集団の利益を第一に行動してしまい、部分最適に陥ってしまうということだ。
これは、長い間、組織全体の効率性を妨げると、研究対象としても、さまざまな論考でも話題になっているが、無くなることはない不滅の課題でもある。
この大企業病は、性弱説的に、生存本能的に、考えを巡らせると、ある意味当然の帰結といえる。
組織が掲げる全体最適を追求することが、仮に自分自身や、自分の所属する小集団の損失になったら、もしくは存続を脅かすとしたら、どうなるだろう。
きっと、私は組織の全体最適を追求し続けるだけの強さを持てず、利己的に行動するだろう。そして、私に類するような人が、他にもいるであろうということは想像に難くない。