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2023.05.19 18:00

森鷗外は最期に「馬鹿らしい」と叫んだ。精神科医が寄せる追慕記

1964年東京五輪、マラソン銅メダリストの遺言と

さて、「遺書」と聞いて読者の皆さんは誰を思い出すだろうか?

1961年生まれの私の脳裏に真っ先に浮かぶのが、円谷幸吉だ。

つぶらやこうきちと読めて、あの角ばった顔を思い出せる人は、ほぼ高齢者のはずだ。1964年の東京五輪。マラソンで銅メダルを獲得したが、さまざまな出来事が重なり、3年3カ月後にみずから命を絶った。27歳だった。

「父上様母上様 三日とろろ美味しうございました」と始まる円谷の遺書を読むたび、目頭が熱くなる。家族や世話になった人の名前と一緒に食べた柿や餅やリンゴやぶどう酒などを並べただけといえば、それだけの文章。

「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」で結ばれた素直な文面の行間から、溢れるような円谷の思いが伝わってくる。
『円谷幸吉命の手紙 松下茂典 文藝春秋』

『円谷幸吉命の手紙 松下茂典 文藝春秋』


松下茂典氏の著書『円谷幸吉 命の手紙』(文藝春秋)によると、円谷の部屋の壁には「オリンピックもがまん マラソンもがまん 勉強もがまん 同じがまん競争です」と黒マジックで書かれた半紙が貼られていたという。医師の眼で見れば、うつ病と診断される。

円谷死去から約3年後に自裁した三島由紀夫はその死を「傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による」ものと捉え、「彼は『青空と雲』だけに属している」と新聞に寄稿した。 

最期に受けた尿検査 「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ」

私にとって忘れられないもうひとつの遺書。森鷗外の実際の遺言は公表された遺書以上に過激な内容を含んでいたという。なぜ、石見の人として死ぬと言明したのか。一番うなずけたのは山崎一頴氏の解説だった。(前述『森鷗外 国家と作家の狭間で』)

鷗外の死に先立つこと6年余。母・峰子の法名は「硯山院峯雲谿水大姉」。命名のいわれを鷗外が説いている。「硯」には郷里の石見を隠していると。

さらにその8年前、鷗外は夏目漱石から東京朝日新聞への小説掲載を頼まれた。これに対し、鷗外は「橐吾野人(たくごやじん)」の筆名でコラム『木精(こだま)』を2日間のみ掲載した。理由はその数カ月前、石本新六陸軍省次官に小説『ヰタ・セクスアリス』発禁処分の件で訓戒を受け、今回も鷗外と署名するなと警告されたから。「橐吾」は「つわ」とも読み、つわぶきを意味する。鷗外の生誕地はつわぶきが群生し、「つわの=津和野」と名付けられたという。
晩年の肖像写真。出典: 別冊太陽 森鷗外 近代文学界の傑人

晩年の肖像写真。出典: 別冊太陽 森鷗外 近代文学界の傑人


死に臨んで、もう何を隠す必要もないと達観したのだろうか。そう思うことすら馬鹿馬鹿しいと思い定めていたのだろうか。

鷗外の弟・潤三郎によると、死の前年から下肢に浮腫が出て、家族は腎臓病を疑い、尿検査を勧めた。だが鷗外は平素から医者の診察は絶対に受けない主義で、仕事を続けた。ところが、死の3週間前に妻・志げに懇願され、初めて検尿を提出した。

「僕ノ尿即妻ノ涙ニ候(そうろう)笑フ可(べ)キヿ(こと)ニ候」(親友・賀古鶴所宛て書簡)

このエピソードを知った私は、志げに想いを寄せずにはいられない。

当時は著名人の死に際し、デスマスクの型をとることは稀ではなかったようだが、志げは後にデスマスクの複製を3つ作らせている。鷗外と自分との子3人用だったろう。鷗外の18歳年下で後妻に入った志げの余生は辛いものだったと伝わる。鷗外は最期、志げにどんな言葉をかけたのか。

遺書には「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ」の文も入れられた。亡くなる10年前に著した自伝的小説「妄想(もうぞう)」で、鷗外は死をおそれもせず、あこがれもせずに、人生の下り坂を下っていくと記した。

私の届かぬ境地。もう森鷗外の享年を超えてしまった者のつぶやきである。

文=小出将則

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