乃木殉死に対して、賛否両論が上がった。一部新聞や白樺派、社会主義者たちが「不健全な理性」などと非難する一方、多くの新聞や学者が「見習うべき武士道」として支持した。
歴史小説で示唆する「主観」
その中で、鷗外は乃木の自刃からわずか5日後に『興津弥五右衛門の遺書』を書きあげた。いわゆる歴史小説の最初である。細川家家臣の興津弥五右衛門は主君の命で、茶事に用いる伽羅(キャラ)の香木を捜しに長崎に出向く。相棒役が「たかが香木」といい、安物の末木(うらき)を買おうとするのを、五右衛門は「主命と申(す)物が大切」と考え、高価な本木(もとき)を買おうとして対立。激高した相棒役が切りつけるのを返り討ちに果たした。帰藩後、切腹の裁きを願い出る五右衛門は反対に許されるが、のち主君の十三回忌のとき、殉死した。
話の内容は全く異なるが、死に至る流れは乃木殉死と似通っており、出稿時期からも、鷗外が乃木の死に触発されて書いたことは明白だ。
鷗外は歴史に範を求めて客観を全面に示すことで、逆に自分の主観を語りかける歴史小説に新しい叙述の可能性を見いだした。以後、それはさらに『渋江抽斎』のような史伝物に連なっていく。
主観と客観。よく論じられる二項対立。私の新聞記者時代、忘れられない思い出がある。
昭和の末期。バブル景気が始まった頃。中日新聞東京社会部で遊軍記者をしていた。遊軍とは特定の記者クラブに所属せず、事件や事故が起こるたび取材に出向き、企画物を執筆する部署。その中で一番若手の私はある日、パチンコ店で大量の玉が天井棚から崩れ落ちる事故を取材した。
帰社後、原稿を直されながら、デスクに聞かれた。質問内容までは覚えていないが、「○○だと思います」と伝えると、「思いますじゃだめだよ、小出君!きみの意見を聞いてるんじゃないんだ!」。文字では伝えきれない衝撃が、わがうちに走った。客観報道という言葉が脳裏をかすめた。
それから40年近く経った。いまや新聞記事の末尾には記者署名のあるのが普通だ。事実の羅列でなく、むしろ「自分」を打ち出すことが求められる。もちろんそれは独りよがりではいけないが。SNSに象徴されるように、誰もが情報発信できる社会。時代は確実に変わった。
話が歴史小説の方法論から脱線したので、元に戻そう。