軍医vs文豪──森鷗外の二面性 大逆事件下「心の内」を精神科医が読む

『森鷗外 国家と作家の狭間で』(山崎一頴著、新日本出版社)のカバー

『森鷗外 国家と作家の狭間で』(山崎一頴著、新日本出版社)のカバー

ことしは森鷗外の没後100年。偉大な文豪にして軍医の「二生」を生きたひとへの、元新聞記者の精神科医による探究シリーズ第3回は、明治末期に起きた大逆事件を下敷きに小説化した鷗外の、エリート官僚としての「公の顔」と作家としての「私の顔」の葛藤について。

前回は、鷗外の後妻志げと母峰子との諍いをもとに描いた小説『半日』を紹介しつつ、明治という時代制約下での女性観について問いかけた。第2回:森鷗外の女性遍歴と「美貌の後妻」に元新聞記者の精神科医が考えること

順調な出世街道 されど真相は複雑怪奇


鷗外が18年下の志げと再婚したのは1902(明治35)年、40歳の時期だった。2年後、日露戦争に従軍した鷗外は凱旋した1907年、医務官僚のトップである陸軍軍医総監(中将相当)および陸軍省医務局長に就いた。

津和野藩(今の島根県)で代々、典医の森家長男に生まれた鷗外にとって、立身出世がひな鳥の刷り込みに等しい達成課題だったことは第1回で述べた。鷗外なりの紆余曲折はあったものの、はた目にはすこぶる順調な出世街道に見える。医務局長就任の翌々年から、弟子で医師の木下杢太郎が後年「豊熟の時代」と呼んだ小説の量産が始まった。その最初が、前回に詳述した『半日』である。

研究家が一部指摘するように、本名の森林太郎として、公務である軍医の仕事(鷗外は「為事」と表現)で家長の役割を果たした結果、プライベートな願望、すなわち文芸表現の欲求がより頭をもたげたのだろうか。

私はそのことに同意する一方、真相はもっと複雑怪奇だったと考える。それを象徴するのが、大逆事件だった。

文学者に大きな影響を与えた大逆事件


1890(明治23)年、大日本帝国憲法が施行され、その後刑法では、天皇皇后らに危害を加えようとする者への大逆罪が適用された(戦後撤廃)。同法で訴追された4件を大逆事件と呼ぶが、その中で最初に社会主義者幸徳秋水らが処刑された「幸徳事件」を一般に「大逆事件」としている。

1910(明治43)年5月、長野県明科警察署が機械工を爆発物所持で逮捕して以来、その協力者とともに明治天皇暗殺計画を企てたとして、幸徳秋水、管野スガらが逮捕された。事件はフレームアップされ、逮捕者は直接嫌疑の無い社会主義者らに広がり、合わせて26人が起訴された。

裁判は大審院(今の最高裁判所)だけの一審制で、人定質問後の傍聴は禁止。クリスマスまでの2週間に12回の公判が開かれた。翌年1月には24人に死刑判決(特赦で12人は無期に減刑)が下り、わずか1週間で刑が執行された。

大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与えた。

石川啄木はロシアの無政府主義者クロポトキンの著作や公判記録を入手研究し、永井荷風は「自ら文学者たる事について甚だしき羞恥を感じた」(『花火』)と書き残している。

森鷗外は、どう関わったのか。
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文=小出将則

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