鷗外と大逆事件を語るとき欠かせないのが、医務官僚・森林太郎としての立場と、文学者・森鷗外としての立場の相克関係であり、その際のキーパーソンが元老山県有朋と事件の弁護人平出修だろう。
山県有朋と鷗外を結ぶ接点、オモテとウラ
明治時代の政治を実質上動かしていたのは、国会(帝国議会)や内閣ではなく、主権者たる天皇直属の元老たちだった。とりわけ、長州出身の山県有朋(1838―1922)は、尊王攘夷運動から維新後陸軍整備に関わり、内務大臣から総理大臣を2回経験。元老として、伊藤博文と並び隠然たる力を発揮した。
山県は権力への志向と同時に和歌や漢詩など文芸分野や造園に幅広く興味を示した。人物像について「面倒見がよく、一度世話した者は死ぬまで面倒をみる」(尾崎行雄)などと評された。
山県(やまがた)との出会いは、鷗外の長男於菟によると、山県の一回目の総理就任時であり、『舞姫』の登場人物「天方(あまかた)伯」を彷彿とさせる。二人をつなげたのは、これも舞姫の登場人物、相沢謙吉のモデルとなった親友の耳鼻科医、賀古鶴所だった。
賀古は山県の外遊に随行して以来の関係であり、その後、クラウゼヴィッツの『戦争論』を翻訳紹介した鷗外が山県の目に留まった。セカンドポストの軍医監になった鷗外は、陸軍人事に絶大な影響力を持つ山県に近づくことの意味を十分に認識していた。(『評伝森鷗外』山崎國紀)。
1906(明治39)年、鷗外と賀古が発起人となって和歌の研究会「常磐会」を発足させた際、その方面に造詣のある山県を誘い、賛同を得た。前述のように翌年、鷗外は医務局長に昇進した。常磐会は1922(大正11)年までに毎月開催(185回)され、大逆事件の最中も変わりなく開かれている。
常磐会発足から9カ月後、鷗外の自宅「観潮楼」でも歌会が始まっている。メンバー構成は佐々木信綱を除いて異なっていた。観潮楼歌会は伊藤佐千夫、与謝野寛、上田敏、北原白秋、石川啄木、斎藤茂吉ら、いわばプロ集団だった
常磐会を「オモテ」とすると、鷗外と山県を結ぶ「ウラ」のラインが「永錫会」だった。
永錫会に関する情報は乏しい。これに関しては、森鷗外記念会会長・山崎一頴氏の著書『森鷗外 国家と作家の狭間で』が詳しく、以下に要約を引用する。
鷗外日記に永錫会が初めて登場するのが1910(明治43)年3月、大逆事件で最初の逮捕者が出る2カ月半前だった。賀古から鷗外宛書簡によると、山県を盟主にして「忠君愛国、法律、経済、文学」の綜合雑誌刊行をもくろんだが、事件の逮捕者が出始めると、社会主義・無政府主義者へ対抗するための理論構築へと会合の目的が変質したという。
軍医だが、驚くべき行動に
(出典:『別冊太陽森鷗外 近代文学界の傑人』)
同年10月27日に大逆事件の被告全員の起訴が決定。その2日後に永錫会が開かれた。メンバーは鷗外、賀古、山県のほか、平田東助内相、小松原英太郎文相、法律学の穂積八束教授、そして常磐会メンバーの国文学者井上通泰。マルチリンガルの鷗外は、海外からの情報を『椋(むく)鳥通信』として紹介する無署名原稿を雑誌『スバル』に連載していた。自然な流れとして、社会主義やアナーキズムについてのレクチャーを山県らに求められただろう。
こうやってみると、当然のごとく、陸軍医務官僚トップとしての「為事」を鷗外はこなしていたように見える。ところが一方で、驚くべき行動にも出ていたことが知られている。