大逆事件の逮捕者数百人は皆つながっていたわけではなく、多くは当局による反体制派取り締まり目的の餌食になった社会主義者で、中にはそうした思想とは関係のない者も含まれていた。
弁護人のひとり、平出修(1878~1914)は文学を志向した弁護士で、1905(明治38)年、東京・神田で開業したころ与謝野鉄幹、晶子主催の短歌雑誌『明星』同人となり、石川啄木と親交を結んだ。その後、鷗外を盟主とした『スバル』創刊に出資した縁で、鷗外と繋がる。
再び、『森鷗外 国家と作家の狭間で』を参照しよう。
和歌山出身の被告2人の弁護を与謝野鉄幹の依頼で引き受けた平出は、鉄幹とともに、鷗外に社会主義や無政府主義について教えを請うた。観潮楼歌会にも参加した平出は、鷗外邸に1週間ほど通い続けたという。
同書には大逆事件に関する重要な史料も載っている。
事件では死刑判決者のうち半数の12人が特赦減刑されているが、死刑判決を受けた管野スガが「聖恩の押し売り」と訴えたように、判決自体が欺瞞だった証拠があるという。
河村金五郎宮内次官から山県有朋宛書簡(1911年1月17日付)によると、判決前にすでに枢密院議長・元老山県、渡辺千冬宮相、桂太郎首相の間で恩赦が約束されていたというのだ。
傍聴禁止の公判に鷗外が顔を出し、裁判記録を入手したという証言がある。永錫会メンバーの鷗外は、一連の経緯を熟知していたのではないか。
大逆事件さなかに発表 2つの小説を深読み
しかし、鷗外は大逆事件に関して、平出にレクチャーした事実も永錫会での議事内容も一切日記に書き残していない。そのかわり、2つの小説を発表した。日付に注目されたい。
『沈黙の塔』(1910年11月)と『食堂』(同年12月、いずれも「三田文学」)。
前者は社会主義や自然主義などの「危険な書物」を読む仲間を殺して「沈黙の塔」に運び込むParsi(パアシイ)族を揶揄する寓意小説で、文庫本13ページ分の小品である。直接の執筆動機は、幸徳秋水逮捕後に東京朝日新聞が連載した記事「危険なる洋書」であることは、読めば明らかだ。
同連載は14回(同年9月16日~10月4日)にわたり、思想書よりもむしろロシアやフランスなどの著名作家の作品を「色情的」などと貶めている。ニーチェとヴェーデキントの「春機発動小説」を紹介したとして、前年に『ヰタ・セクスアリス』で発禁処分を受けた鷗外を指弾、妻の志げも「頻りと婦人生殖器に関する新作を公にされる」とやり玉に挙げている。
(出典:『近代政治家評伝 山縣有朋から東條英機まで』)
深読みすれば、パアシイ族は山県を筆頭とした体制側を隠喩していると取れる。山崎國紀氏が記すように、鷗外の主張の眼目は『沈黙の塔』の以下の表記にある。
「芸術の認める価値は、因襲を破る処にある。(略)因襲の目で芸術を見れば、あらゆる芸術が危険に見える。(略)学問だって同じ事である。学問も因襲を破って進んで行く」
「破る」という表現が新鮮に映る。体制側が拠って立つ因習へのプロテスト(抗議)が、山県の反感を招いたことは想像に難くない。
1カ月後に掲載された『食堂』は、鷗外をモデルにした主人公の役人木村が役所の食堂で同僚たちと昼を食べながら無政府主義者について雑談する、これも文庫本12ページ分の小品である。
大逆事件公判(傍聴禁止)のさなかに発表されており、読者は事件とイメージを重ねる。どこか幻想的な『沈黙の塔』と違い、形而下的な印象を与える作品だが、結末に「ひねり」が加わっている。