森鷗外の女性遍歴と「美貌の後妻」に元新聞記者の精神科医が考えること

美貌の誉高かった森鷗外の2人目の妻「志げ」、自身もバツイチだった

美貌の誉高かった森鷗外の2人目の妻「志げ」、自身もバツイチだった

ことし没後100年の森鷗外。偉大な文豪にして軍医の「二生を生きたひと」への、元新聞記者の精神科医による探究シリーズ第2回は、鷗外と女性、とくに二度目の妻森志げを中心とした論考をお伝えする。

鷗外には「隠し妻」がいた?


前回は鷗外森林太郎の来歴から説き起こし、家制度を守る明治の女であった林太郎の実母峰子との精神的密着を軸にして、なぜ『舞姫』を書いたのかという持論を展開した(第1回:精神科医が森鷗外と実母の「母子一体関係」を分析したら 参照のこと)。

鷗外は東大医学部を出たのち陸軍軍医となり、衛生学研究のためドイツに国費留学した。そこで運命的出会いを果たしたエリーゼ・ヴィーゲルトと別れることで、帰国後の家長、官僚としての役割を優先させた。

ところが、最初に結婚した赤松登志子とは長男於菟(オト)が生まれたあとに離縁(28歳)。その後、時期ははっきりしないが、母峰子の見定めた、鷗外より5歳下の児玉せきを囲い、世話を続けた。

明治は畜妾が容認された時代だったが、1898(明治31)年、『万朝報』が「弊風一班畜妾の実例」と題して510例を収録、連載した際に、せきのことも取り上げられている。いまでいうならさしずめ「文春砲」だろうか。於菟は後年「鷗外の隠し妻」という文章で、せきの前で蟻をつぶした少年時代を回想している。

翌年、鷗外は九州・小倉の第十二師団軍医部長に配転された。研究者の間では、これを左遷と捉える評価が主流だったが、異動は軍医監への昇格であり、客観的には順当な人事であったと山崎國紀氏は『評伝森鷗外』で解説する。

18歳下の美貌の後妻、荒木志げも「バツイチ」


いずれにしても、小倉時代の1902(明治35)年、40歳の鷗外は18歳下の荒木志げと再婚した。

志げは1880(明治13)年、東京に生まれた。佐賀出身の父荒木博臣は戊辰戦争で政府軍として参戦、のちに大審院判事となった。4人きょうだいの三番目の長女で、華族女学校(現学習院)を卒業後、著名銀行家の御曹司と10代で結婚したが、夫の過ぎた芸妓との関係が新聞種になって父の逆鱗に触れ、1カ月経たずに離縁した。


別冊太陽 森鷗外 近代文学界の傑人 生誕150年記念(山崎一穎監修、2012年、平凡社刊)より

当時、上級軍人の結婚には国の裁可が必要だったが、登志子やせきの時と同様、後妻の人選に母峰子の関与があったのは変わらない。志げの美貌は峰子のめがねに適った。その2年前に登志子が結核で亡くなったことも再婚に踏み切れた理由のひとつとされる。

志げの容貌について、鷗外が親友の耳鼻科医・賀古鶴所に「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」と書簡を送ったことは、よく知られる。しかし、志げの存在が新たな葛藤の種になっていくとは、その時の鷗外には知る由もなかっただろう。

志げは鷗外との間に二男二女をもうけた。長女茉莉(マリ)、二男不律(フリツ)、次女杏奴(アンヌ)、三男類(ルイ)である。(長男於菟は上述のように先妻登志子との子)。いずれも、外国でも通用するようにと鷗外が名付けた。

そのなかで、とある事から筆者は、次女の杏奴さんと知遇を得た。

場面は一気に、明治から昭和に移る。
次ページ > 筆者は東京新聞三鷹通信部員時代、次女杏奴さんと出会う

文=小出将則

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事