新聞記者4年目、東京新聞三鷹通信部員時代に──
1987(昭和62)年6月、新聞記者4年目の私は、ある取材を命じられた。6月19日は、太宰治が愛人山崎富栄と三鷹・玉川上水で心中して発見された命日、「桜桃忌」である。
東京新聞三鷹通信部員の私は、太宰の墓のある禅林寺に出向き、毎年取り行われていた桜桃忌法要を取材した。その模様を同紙コラム「微風」に載せたことがあり、ここに再録する。
「白いバラとサクランボ」(原文縦書き)
小堀杏奴さんが、父鷗外森林太郎の墓を三鷹の禅林寺に訪れたのは、さる十九日の父の日だった。同寺ではこの日、太宰治をしのぶ桜桃忌。没後四十年の今年は千人近いファンが集まった。太宰は生前望んだ通り、鷗外の斜め前に眠っている。
花屋でトゲを取り払ってもらった白バラを父の墓前に供える杏奴さん。三㍍と離れぬ太宰の墓では、サクランボの首飾りのかかる石柱に、若者が缶ビールをかけている。
僧りょの読経が流れるころ、太宰の墓の周囲は参列者で埋まった。墓石が踏み台。もちろん鷗外のもだ。
だが杏奴さんは渋い顔一つ見せない。生きていれば同じ七十九歳の太宰に心寄せるからだ。桜桃忌には毎年顔を出す。それは、鷗外を強烈に慕った太宰への、あこがれにも似た思いからだろう。
白バラのわきには、熟れたサクランボが、五つ六つ──。(将)
「森林太郎墓」に気づかない? 若き太宰ファン
鷗外の墓を踏み台に使うとは失礼千万、と考えてはいけない。鷗外の墓石には「森林太郎墓」以外何も彫られていないから、若い太宰ファンに分かるはずがないのだ。(ちなみに、令和になって新聞社に入った新人記者が、「森林太郎って誰ですか?」とつぶやいたというエピソードを最近SNSで知り、時代を感じた)。
杏奴さんとの交流は脈々と続いた。鷗外に似て、つぶらな瞳に鋭く輝く眼光、しわ枯れてはいるが、低くてよく通る声。白髪をきちんと束ね、凛としたたたずまい。万年筆の青インクの角張った字で「冬は流感が怖いので、小堀と私は外出しません。暖かくなったら、お出かけください」と毎年、賀状をいただいた。
小堀とは画家で夫の小堀四郎氏。静謐かつ雄渾な画風を特徴とした。どこかで聞いた程度の認識しかなかった私は、出身高校の大先輩と知って浅学を恥じた。杏奴さんとのあいだで、私のプライベートを話せる関係になり、私が四郎氏の後輩であると杏奴さんが教えてくれたのだった。
杏奴さんと出会って4年後、私は新聞記者を辞めて精神科医を目指した。その1年後に医学部合格を杏奴さんに報告すると、わがことのように喜んでくれた。新宿のデパートで食事をご馳走になり、お祝いにネクタイとチョコレートをもらった。
杏奴さんの長男も医者と聞いた。小堀鷗一郎氏。もちろん鷗外から採った名。後年、鷗一郎氏の映画「人生をしまう時間(とき)」(下村幸子監督、2019年公開)を観た。私の母と同い年で、消化器外科専門医から在宅訪問診療医に転じた鷗一郎氏が多くの人を看取る様子を撮ったドキュメンタリー。ご縁を感じた。
森志げのことを書くつもりが、次女の杏奴さんから私事に及び、話が“脱線”したので、元に戻そう。志げの、森家の嫁としての態度に鷗外はどう応じたのか?