爪、飴玉、遅筆──残された「症状」から、精神科医が向田邦子を診断したら

(『向田邦子 その美と暮らし』 2011年、和樂ムックより、撮影:小出将則)

「此の度は格別の御働き」という一行があり、そこだけ朱筆で傍線が引かれてあった。

それが父の詫(わ)び状であった──。

向田邦子さんの飛行機事故死から40年。昭和の匂いを色濃く漂わせたエッセイや小説に引き付けられる者はいまも絶えない。今回は彼女の足跡をたどりながら、“ムコウダ・クニコ”の深層心理に迫ってみたい。


「その頃、私は、あまり長く生きられないのではないかと思っていた」


短編小説集『思い出トランプ』で第83回直木賞を受賞してわずか1年後の1981年8月22日、台湾上空で遠東航空ボーイング機が空中分解を起こして墜落、搭乗していた向田邦子は51歳で帰らぬ人となった。

その4年後の夏、航空機事故史上最悪となった日航ジャンボ機墜落で、新聞記者2年目だった私は現地に駆けつけた。両方の事故ともに、原因は「金属疲労」という機体劣化が深くかかわっていた。そのころの私はまだ、向田作品のよき読者ではなく、日々の取材に明け暮れていた。

昭和ひとケタ生まれの邦子は戦後、雑誌編集者として働き、高度経済成長期には脚本家として確固たる地歩を築いた。

私の小学生時代にテレビ放送されたホームドラマ「時間ですよ」は下町の銭湯が舞台。ストーリーと無関係なギャグの応酬や人気歌手の挿入歌が子ども心に楽しく、女風呂の入浴シーンにドキドキして見入った。番組の脚本家のひとりが向田邦子と知ったのは、ずいぶん後のことだった。

彼女に転機が訪れたのは1975年、45歳のとき。乳がんが分かり、手術をした。輸血で生じた血清肝炎で右手が不自由になった。その翌年から、左手で書いた文章をタウン誌「銀座百点」に載せた。2年4カ月にわたって綴られた作品24篇をまとめたのが初のエッセイ集『父の詫び状』だ。

あと書きにはこうある。「その頃、私は、あまり長く生きられないのではないかと思っていた……こういう時にどんなものが書けるか、自分をためしてみたかった」。


(撮影:小出将則)

作中では繰り返し、亡くなった父の二つの顔が語られる。ひとつは、癇癪もちですぐに手を上げる戦前の家長としての父。もうひとつは、自分の父親の顔を知らずに育ち、苦労した少年時代の父。しかし、「注目すべきはその顔の間に心優しい父の姿をさりげなく滑り込ませている点」と、邦子の出身校である実践女子大の平原日出夫教授は書く(『向田邦子鑑賞事典』)。

わが身との「類似性」に身震い


新聞社を辞めて医学部に入り直したころ、向田作品に触れた私は、一連のエッセイや小説をむさぼるように読んだ。こんなに魅せられる作家は太宰治以来だった。理由を考えて思い至ったのが自分との“共通点”だった。

むろん、こちらにあんな文才のあるはずもない。ただ、私の父親も昭和ひとケタ生まれ、邦子の4歳下に当たる。長男だった父にもし姉がいたとしたら、邦子のような人だと思えるのだ。私の祖父は太平洋戦争で兵糧運搬の軍馬用獣医としてビルマ戦線に赴き、終戦の前月、現地で戦死した。私にとって邦子の父と同世代の祖父は、実家の仏壇間のはりに掛かる軍服姿の遺影だった。

もちろん、家族の世代がリンクするというだけではない。

向田作品を読めば読むほど、わが身との「類似性」に身震いするのだ。キーワードは「ADH」。プロ野球の指名打者(DH)とは何の関係もない。それは、私の仕事である心の医療に関わる用語だ。説明しよう。
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文=小出将則

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