初の口語体小説に書かれた「嫁姑問題」
志げと結婚した1902(明治35)年、小倉から第一師団軍医部長として東京に戻った鷗外は陸軍医務局長(軍医総監)という最高ポストを目指す。一方、文京・千駄木の家では志げと峰子との間に嵐が吹き荒れた。その様子を基に書き上げられたのが、久しぶりの小説「半日」(1909年)。鷗外には初の本格的口語体小説だった。
『半日』(森鷗外著、筆者蔵)
「半日」はまとめると、以下のような内容だ。
文学博士の主人公高山峻蔵が皇室行事に参内しようとした朝、奥さんの機嫌はいつものように低気圧状態となる。博士の母が台所で「おや、まだお湯は湧かないのかねえ」と発すると、「まあ、なんという声だろう」と寝床で布団を跳ね上げてから、義母への罵詈雑言(ばりぞうごん)が止まらなくなる。
「まるであなたの女房気取で。会計もする。側にもいる。御飯のお給仕をする。お湯を使う処を覗く。寝ている処を覗く。色気違が。」
朝ごはんを拒否し、8歳の娘、玉ちゃんを連れてどこかへ行こうとする。結局、博士は参内を中止して妻をなだめにかかるうちに半日も時が過ぎてしまった。(『森鷗外全集Ⅰ』ちくま文庫)
世によくある嫁姑問題とみることはできる。ただ、注目すべきは当事者が森鷗外であり「事実」がベースになっているという点だ。しかも、奥さんの姑への嫉妬心は度を超えている。
長女茉莉の回想によると、お玉は茉莉がモデルで実物通りなのに対し、奥さんの描写は志げの実像をデフォルメさせたものだという。
「母の青白い美しさと、ひどく鋭い神経とが、誇張されている」(『半日』講談社文芸文庫「父の帽子」所収)。
嫁姑バトルは、「家の秘事をくらます」ために書かれた?
それにしても、前回当欄で取り上げた「舞姫」の執筆動機と同様、森家の内幕を描いた「半日」を書いた真相は何だったのかが気になる。
文芸批評家の田中美代子氏は「森茉莉の見た鷗外―「半日」はなぜ書かれたか」(『講座森鷗外Ⅰ』)で大胆な考察をしている。
三島由紀夫が、告白型の小説家を傷つきにくい人間だなどと思い誤ってはならない(「小説とは何か」)と書いたのを引き合いに、「半日」は告白と自己防衛とが微妙にかみ合った作品で、鷗外にとって家の秘事をくらます世間への目つぶしのようなもの、と推論する。
では、「秘事」とは何か。「半日」が書かれた時系列を追いながら説明しよう。
茉莉が書く通り、「半日」での嫁姑バトルは茉莉が生まれる頃からのことだっただろう。その翌年、日露戦争が勃発し、鷗外は戦地に赴いた。千駄木の留守を預かるはずの志げは、茉莉を連れて芝の実家に引き上げている。鷗外は従軍で400を超える詩、短歌、俳句を詠み、戦後『うた日記』を刊行したが、同時に百数十通の手紙を戦地から志げに送っている。宛て名を「やんちゃ殿」とするなど、妻をいたわりながらも幼い娘を案じた内容が多い。
一方で、鷗外は戦死した時のことを考え、従軍前に遺書を残した。森家の経済、遺産のことは志げには一切任せないと断じている。志げは峰子だけでなく、於菟らほかの家族との関係もうまく結べなかった。
鷗外の凱旋帰国の翌年、志げは次男不律を産む。だが半年後、鷗外の弟篤次郎が急死。息つく間もなく茉莉と不律が百日咳に罹り、生後8カ月の不律は苦しんだのちに息を引き取った。その後の出来事が「秘事」にあたる。