図書館の冷蔵庫には「ウォッカが2本」。侵攻前夜ロシアより彼女の証言

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ロシアで生きるロシア人女性と、日本で生きる日本人女性の間に、どんな共通点があるのか。筆者は、ロシア人作家で詩人のダリア・セレンコ氏(高柳聡子氏訳)による本『女の子たちと公的機関 ロシアのフェミニストが目覚めるとき』 を読むまで、ほぼ考えたことがなかった。

ウクライナ侵攻前に出版された同書は、ロシアで一人の「女の子」がフェミニズムを掲げる一人の人間として、そして反戦のアクティビストとして目覚めていく様を、文学的・詩的な表現で綴った作品だ。作品で使われている「女の子」という表現は、ロシアの公的機関で働く人たちが、年齢も問わず「女の子」のように一括りに扱われている、という状況を指す。

公的機関で働く「女の子」たち

十把一絡げとして扱われる公的機関で働く「女の子」たちは、行動が監視されたり、虐げられたり、不正を隠蔽するために使われたりする。こうした日常や出来事が、文学的もしくは詩的な表現を使ってしたためられている。

日本で日本人女性として生まれ育った筆者自身の体験に照らすと、自身も同様に、日本とロシアという土地の違いはあれど、「女の子なんだから」という呪縛に規定されて育ち、教育を受け、働き始めた存在だ。

不正を隠蔽することに加担させられたことは幸いにもないが、20年前、30年前は、地方では特に、「女の子は短大でいい」「女の子はすぐ結婚するから仕事は頑張らなくていい」などと、職場でも家庭でも学校でも繰り返し呪文のように言われてきた。

そしてこれはもちろん、日本とロシアに限ったことではなく、世界中のたくさんの国で「女の子」という一括りの表現と扱いが、女性やマイノリティに対して行われてきている。

一括りの「女の子」から、反戦アクティビストへ

セレンコ自身は、一括りの「女の子」から、自らの頭で思考し表現するアクティビストへと脱皮していく。

訳者あとがきの中の、高柳聡子氏による著者の紹介によると、大学時代のセレンコは、「私が出ていた文学のゼミは、男性が指導していることが多くて、彼らは女性詩を二流とみなして少し見下していました。私は男性の批評を怖がる癖がついてしまって、自分は余計な声を出すべきじゃないただの女の子なんだと考えるようになっていました」と語っている。

「元々は地方出身で敬虔なロシア正教徒だったという彼女は、自分の心身に刷り込まれた家父長的な思考や態度に、詩を書くことを通して気づいていく」。

「書くこと」や「文学」を通して、他人や、社会の規定の価値観が決定軸だった女性が、自らを客観視する目を獲得し、自分の考えと主張を持ち、それを社会に発信していく一人の人間になっていくのだ。
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文=高以良潤子 編集=石井節子

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