技術革新と社会貢献の精神を結実
1900年に誕生した立石が、幾つかの勤めを経て起業したのは29歳の時だった。家庭用のズボン・プレッサーを開発し、自らそれを売りに歩いた。しかし、ほとんどニーズはなかった。その3年後、友人のすすめもありレントゲン撮影用のタイマーを開発し、大口の注文も入ってきた。
経営の安定が見えてきたとし、満を持して自らの名前を冠した「立石電機製作所」を設立する。1933年、立石31歳の時だった。
そんな立石に大きな転機が訪れるのは、敗戦からまだ10年もたっていない1953年。立石は前年に聞きつけた米国で開発されたという「オートメーション工場」を視察するため単身米国にわたる。「原材料を入れただけで完成品がベルトで運ばれてくる。驚きしかなかった」。米国発の「オートメーション工場」を見学し、立石はこう述懐する。
同じ時期に立石は後の立石電機、オムロンの経営を左右するような出会いをする。それは米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授、ノーバート・ウィーナーが提唱する「サイバネティックス」という考え方だった。数学、科学、通信技術……などを組み合わせた複雑な思考だが、その先にあるのがコンピュータなどを用いた自動制御の技術であり、思想だった。
先の「オートメーション工場」の衝撃、そして自動制御の技術などに触発され、その革新技術を使った製品を社会に提供したいという理想と意欲が結実したのが、先に紹介した「自動改札機」であり、「道路交通管制システム」であり、「ATM」などであった。
「社会が求めている製品を開発してこそ、立石(電機)の価値があり、技術の価値がある」
こうした先進的な考え方、理念を敷衍したのが1970年に立石が提唱し、今も同社に受け継がれている「SINIC理論」である。科学と技術の円環論なのだが、煎じ詰めると原因と結果とが互いに刺激し合い、社会を発展させていくというもの。生涯技術者を自任していた立石は、常に技術革新が社会を発展させるという揺るぎない信念をもち続けていた。