私が尊敬するのは……森ビル元会長の森 稔さんです。
戦後の混乱と熱狂のなかで、猥雑(わいざつ)に過密化していく東京の街を目の前にして、整然とした緑が広がり、ビジネスと文化と自然が共存した都市を思い描いた森稔さん。一つの開発に30年、ビジョンの実現に向け50年以上の時間をかけ、街をつくってきた森ビル。
戦後の西新橋の街で彼の思い描いたビジョンが、世界中の人が知る六本木~虎ノ門の街をつくり上げました。東京の街に住み、街と空を眺めると、壮大な強度あるビジョンとはこういうものなのかと森稔さんへの畏敬の念が湧き上がります。
松本恭攝 ラクスル 代表取締役社長CEO
1970~80年代に“情報帝国”リクルートをつくり上げた江副(えぞえ)浩正は、東京大学教養学部に通う学生だったころ、駒場寮に住む同級生が一心不乱にビルの設計図を描いている姿を目撃する。同級生は建築に関しては素人だった。
「彼はまさに起業家だったと思う」
一大起業家の江副にそう言わしめたのが、のちに森ビルの“実質的な”創業者となる森稔その人だ。
森ビルを創業した稔の父、泰吉郎の経歴は異色だ。東京・港区で米屋を営む傍ら貸家業をする家に生まれた泰吉郎は、横浜市立横浜商業専門学校(現・横浜市立大学)で教壇に立つ一方、貸家業の近代化に取り組む。やがて大学を辞し、貸家業を正式に会社組織とする。森ビルの誕生だ。
泰吉郎の二男として生まれた稔は、サルトルやカミュを耽読する小説家志望の大学生だった。大学2年生のときに患った胸膜炎という病が、森を実業の世界へ導くきっかけになる。
1年間の自宅療養を強いられた森に、父は「貸家業」から「ビル管理会社」へ移行しようとしていた家業を手伝わせた。勤勉にして実直だった森は、フランス文学の書物とともに建築関係の本を読み始め、運命の出合いをする。当時、世界の建築界では異端視されていた建築家、ル・コルビュジエが書いた『輝く都市』(坂倉準三による邦訳が1956年に刊行)がそれだ。