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2023.04.10

パナソニックグループ創業者の松下幸之助さん|私が尊敬するカリスマ経営者

和歌山の果物農家の長男として生まれ、大阪の大学に進学。新卒でエンジニアとして入社した日本アイ・ビー・エムで社長に就任した山口明夫。彼が大ファンと公言するのは同じく和歌山出身、大阪で会社をおこした“経営の神様”、松下幸之助だ。

私が尊敬するのは……
パナソニックグループ創業者松下幸之助さんです。

大阪の学生時代にコンビニでふと手にしたPHP文庫を読み、人の温かさを大切にするお人柄に感銘を受けて以来、松下幸之助さんの大ファンです。同郷の和歌山出身であること、9歳で大阪に出てこられたことからも、勝手に親近感と尊敬の念を抱いていました。企業は社会の公器、事業は人なり、商品の前に経営理念を売る、等の言動の根底に、人への信念、より良い社会への想いと経営への深い覚悟を感じ、多くを学ばせて頂いています。

山口明夫 日本アイ・ビー・エム代表取締役社長

山口明夫 日本アイ・ビー・エム代表取締役社長


やまぐち・あきお
◎1964年生まれ、和歌山県出身。87年日本IBM入社。エンジニアとしてシステム開発・保守を担当後、経営企画、米国IBM役員補佐などを歴任。コンサルティング、システム開発・保守、アウトソーシングなどのサービス事業担当を経て、19年5月から現職。米国IBM本社の経営執行委員のほか、企業アクセシビリティ・コンソーシアム(ACE)の代表理事、22年より経済同友会副代表幹事も務める。



「なんだそれは……」松下が突然叫ぶや、手元にあったオシボリで机を何度もたたきながら怒りを爆発させたことがある。

「いったい、お前たちは何をしてきたんだ? 何もしてこなかったのか? こんな貴重な時間を販売店に使わせて……」

“経営の神様”と呼ばれた松下電器産業(現パナソニックグループ)創業者、松下幸之助。その松下が実業を引退し85歳にして私財70億円を投じ、設立したのが「理想社会のリーダー」を育てんとした「松下政経塾」。その一幕だ。

塾生たちには数多くのカリキュラムが課せられていたが、そのなかのひとつが松下電器系列の販売店「ナショナルショップ」で実際に家電を売るという販売体験の授業だった。その販売体験の報告会でのことだ。孫のような塾生たちの体験を松下は相好を崩して聞いていた。

松下が声を震わせて怒ったわけ

ところが、ある報告を聞くや、表情を険しくし始める。ある塾生が、自分たちは高校を出たばかりの販売員の足元にも及ばなかった。だから、塾長(松下のこと)に報告できるような結果は何もありませんと報告した時のことだ。

静まり返った教室に松下の声を震わして怒る声だけが響いた。余りの怒りように横にいた秘書が、「塾長、体にさわります」といさめるほどだった。

報告会が終わると、松下を激怒させた塾生は荷造りをしていた。あれだけ塾長を怒らせたのだから、退寮を命じられるだろうと、涙を流しながら荷造りをしていた。ところが、そこに松下の秘書がやって来て、一冊の小冊子をその塾生に渡した。松下のエッセー『叱ってもらう』だった。怒られた意味がよくわかっていない塾生に秘書は、松下の言葉を伝える。「売り方がわからなければ、なんで高校を出たばかりの子に聞かなかったのか? 頭を下げて『教えてくれますか』と言えばその子は喜んで教えてくれたはず。傲慢な人間は助けてもらえない。素直な心がなければ人として生きていけない」

松下政経塾には松下の理念に共鳴し、多くの若者が集まった。そのなかのひとり、野田佳彦は後に総理大臣となる。地盤・看板・カバンを持たなかった政治家の野田は、この塾の人脈を足がかりとして民主党内で頭角を表していった。

松下は「家が貧乏だったこと」「身体が弱かったこと」「学歴がなかったこと」、この3つを自分がもらった「恵み」だったと話していた。言わば、この“三重苦”があったればこそ、それをバネとして成長できたと言うのだ。
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文=児玉 博 イラストレーション=リューク・ウォーラー

この記事は 「Forbes JAPAN No.102 2023年2月号(2022/12/23発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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