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2023.04.10 17:00

パナソニックグループ創業者の松下幸之助さん|私が尊敬するカリスマ経営者

Forbes JAPAN編集部
尋常高等小学校を困窮のために中退。でっち奉公を重ねながら、23歳の時、妻や妻の弟(井植歳男。三洋電機の創業者)らとともに電気ソケットを製造販売する。苦境は続いたが、「必ず成功する。俺には運がある」と言い続け、「二股ソケット」が爆発的なヒット商品を生み出す。同商品は大正時代の三大ヒット商品のひとつに数えられるほどだった。自転車用のランプの販売の時に初めて「ナショナル」ブランドを使う。「二股ソケット」で財を成した松下電器は、日本中の家電製品を席巻する。

その時に松下電器商品を販売する「ナショナルショップ」を組織化、松下は販売店を“神”の如く大切にした。

松下は人生の半ば、50歳代から長者番付の常連となった。トップとなったのは10回に及んだ。人は松下を億万長者と呼び、経営の神様と呼ぶようになっていった。家電メーカーとしての松下電器の経営は盤石に見えた。

数千億円の資産を築いたといわれる松下だが、第一線を離れた80歳代でも松下電器を支えてくれている販売店へ尋常ならぬ気配りをしていた。

販売店を招いての慰労会の日。たまたま真冬の野外でのイベントであったが、松下は販売店店主らの求めに応じ、笑顔を絶やすことなく、写真撮影に応じ続けていた。寒さを案じて、室内に入るように秘書が言葉をかけても、松下は聞こうとさえしなかった。

すべての撮影が終わり、にこやかに手をふって室内に入ってきた松下は、そのまま倒れ、すぐに入院の手続きが取られた。

それほどまでに体が衰弱していながら、松下は嫌な顔を見せずに撮影に応じ続けた。

「販売店あっての松下でっせ」

そう繰り返し話していたのは有名な話だ。

冒頭に戻ろう。オシボリを叩いてまで叱り飛ばした数日後。松下は秘書を呼び、叱り飛ばした塾生たちの働きぶりを販売店に聞くように指示。朝7時の掃除から、販売員たち10名の食事の用意など、よく働いていたと報告を受ける。叱った塾生を塾長室に呼んでこう声をかける。

「あんたらわてのでっち奉公みたいに働いたそうやないか。たいしたもんや」。そして、こう続けた。

「その頑張りに、素直な気持ちがあれば商売、鬼に金棒でっせ。がんばりや」

誰に対しても温かい目をもち見捨てない。これこそダイバーシティ経営の先駆けだった。

松下幸之助 年譜
1894 和歌山県に生まれる。
1904 9歳で単身大阪に移住、火鉢店などで奉公。
1910 大阪電灯に入社。
1915 井植むめのと結婚。
1918 松下電気器具製作所を創業。2灯用差し込みプラグなどを発売。
1923 自転車用の砲弾型電池式ランプ発売。
1935 株式会社化し、松下電器産業株式会社設立。
1946 PHP研究所を創設。
1952 フィリップス社と提携。洗濯機の製造販売開始。53年にかけてテレビ、冷蔵庫の「三種の神器」を続々と発売。
1961 社長を退任し会長就任。
1962 タイム誌の表紙を飾る。高度成長期の「顔」に。
1979 松下政経塾を設立。
1989 94歳で死去。


児玉 博◎1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。2016年、『堤清二「最後の肉声」』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』の ほか、『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』『堕ちたバンカー 國重惇史の告白』など著書多数。

文=児玉 博 イラストレーション=リューク・ウォーラー

この記事は 「Forbes JAPAN No.102 2023年2月号(2022/12/23発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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