映画

2023.04.15 18:00

障害を持つ息子は被害者か? 罪悪感を抱える父親の「間違い」丨映画「靴ひも」

自分を加害者にしておきたい父親

「息子に奪うべきものが残っているのか?」と周囲の人に問うルーベンの言葉は、そのまま己への断罪でもある。息子はさまざまなものを奪われた状態で生まれてきた、そこからさらに奪ったのは父である自分だ、そんな親が今さら息子から何か受け取る資格があるのか、と。

ルーベンの間違いは、罪悪感からどこまでも自分を加害者にし、息子を被害者の位相に留め置いていることだ。父が常に「与え守る立場」、子が常に「与えられ守られる立場」とは限らない。しかしルーベンは、罪の意識からそれが逆転する可能性を考えることが、なかなかできなかった。

ようやくルーベンが息子の願いを聞き入れた後、再度の面接で、ガディがたどたどしくも力を振り絞り、父のドナーになりたいと面接官に訴える。「父は親友」だと述べる場面には、生まれて初めて「与え守る立場」に立とうとする息子の、目を見張るような意志がみなぎっている。同時に、自分の腎臓を提供して父の死を食い止めたいという熱望によって、ガディの中の自殺願望はすっかり消え失せている。

しかしこの作品が単なるハートウォーミングなドラマで終わらなかったのは、移植手術が成功し親子が元通り共に暮らしていくというハッピーエンドを避けた点にある。

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タイトルの「靴ひも」は、ドラマの中で3回、ガディが靴紐を結ぼうとする象徴的なシーンから取られている。

1回目と2回目は面接官に促されての場面だが、1回目は助成金の必要なルーベンの意向でわざと結ばず、2回目はドナーの資格を疑う面接官への怒りと焦りで結ぶことができない。結ばない/結べない靴紐はそれぞれ、「父の保護下にあろうとする息子」「他人から父の保護下にあるとみなされた息子」の姿を象徴している。

3回目は、父を失ったガディが新たな人生に一歩踏み出していこうとする場面だ。ここで初めて靴紐はすんなりと結ばれる。「父」という保護膜が取れてようやくガディは、自らの意志で自分の進む道を決断する。

冒頭、ルーベンの日常から元妻の葬儀場面へと展開したドラマは、最後にルーベンの葬儀を経て、ガディの日常で幕を閉じる。息子は父と生を分かち合おうとしたが、最終的には父から息子へとパスが渡されたのである。

ルーベンは、ガディの希望通り彼の腎臓をもらい生き延びることで、息子への父の義務を果たそうと考えたかもしれない。いや義務より何より、ガディを既に愛し始めていたルーベンは、心から彼との幸福な暮らしを望んだかもしれない。しかし結果的には、他ならぬ己の死をもって、息子の独り立ちを促すことになった。父の夢見る幸福と息子の自立を両立させなかったところに、親子関係への深い洞察が示されている。

連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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文=大野左紀子

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