アメリカでも通用したボヤキズム
心境に変化が起きたのは、就職するはずだったホームセンターの社員と酒場で偶然出会い、誘われて社員として働き始めたことがきっかけだった。
「肥料や園芸の担当になって配達にいくと、うちの運搬車がけっこう使われていたんです。大事に使われているのを見るとうれしくてね。会社に連絡して勝手にキャニコム製品を仕入れて、売ったりしてました(笑)」
ホームセンターで2年働いた後、家業を継ぐつもりはなかったが、父から「いまよりも給料をアップするぞ、戻ってこい」と連絡が入り、2004年、故郷のうきは市に戻った。ところが、包行はそこでまた居心地の悪さを感じることになる。
「まず製品を知るために品質保証や組み立ての業務をやりました。でも、社長の息子は腫れ物だから、誰もかかわりをもとうとしない。社内には居場所がなく、当時はひとりプレッシャーを感じ、家に帰ってよく泣いてました」
転機が訪れたのは入社半年後。キャニコムは2001年、北米への販売拠点としてアメリカ・シアトルに合弁会社を設立していた。ただ、当時は日本で売れ残ったものをそのまま代理店に輸出するだけで、ほぼ機能していなかった。包行は父から本格展開のミッションを受け、単身渡米したのだ。
実は包行に授けられたミッションはもうひとつあった。当時売れ残っていた運搬車「伝導よしみ」のユーザーを探してくること。しかし、日本で売れなかったものがアメリカで売れる道理はない。困った包行がすがったのが「ボヤキズム」だった。
「当時はバイオエタノールが注目された時期。原料となるトウモロコシ畑に行けばヒントがあるかもしれないと思い、コロラド州の農家に1カ月入りました。畑は広大で、水をまくスプリンクラーも巨大。タイヤが故障すると、メンテのスタッフが1個80kgの重いタイヤを担ぎ、ゼエゼエと息をつきながら運んでいました。その姿を見て、あっ、ボヤキだ、うちの運搬車で解決できるなと」
ただ、「伝導よしみ」はタイヤ運搬用につくられていない。包行は本社の開発者と何度も連絡を取ってカスタマイズ。それが功を奏して「伝導よしみ」は完売となった。アメリカでもボヤキズムは通用したのだ。
その後、リーマンショックで事業撤退の危機があったものの、向こうで培った人脈にも助けられて北米事業を軌道に乗せた。
2010年に凱旋帰国。継ぐつもりはなかったが、後継者問題が起きて、15年、34歳で社長に就任する。
「前体制は大量生産でコストを下げて販売台数を伸ばす戦略でした。しかし、それはお客様一人ひとりに合った製品を提供する従来のやり方と違う。安売りではやっていけないことは業績にも表れました。僕は食べるものも着るものも、すべて社員が稼いでくれたお金で育った。社員のために自分ができることがあるならと、社長を引き受けました」