宮城県石巻市立大川小学校
避難経路や意思決定方法が確定していなかったことに起因する判断遅れにより、多くの犠牲者を出すことになった場所である。自治体の責任・賠償を求めた裁判は控訴審まで争われ、上告受理申立て棄却により確定した。海抜1m地帯に立つ2階建ての校舎跡。隣接して設置された記念館では、裁判の経緯に加えて、『何が間違っていたのか』という問題意識・教訓について、驚くほど率直に記録され、展示されている。この最終形に至るまでの関係者の皆さんの苦悩葛藤を正しく推し量ることはできないが、それらを乗り越えて辿り着いた率直さに、深くこうべを垂れる思いがした。それ以外の遺構も、大小さまざま考えさせられることが多い。
旧女川交番
石巻線終点、女川駅は震災後7m嵩上げされ再生した。駅前から海岸に向けた地区は、現在商店街「シーパルピア女川」として再整備され、道の駅「ハマテラス」とともに地区内外の客を集めている。そのメイン通りの先、海岸との間に、転倒したままの鉄筋コンクリート建築物が残されている。側面から突き出した基礎杭は、津波に先立つ地震により地盤の液状化が起こっていたことを物語っている。遺構としての時計塔──時を刻む/時を止める
仙石線野蒜駅
駅周辺は鳴瀬川河口に隣接した低地である。川を挟んだ北側にある航空自衛隊松島基地を含む広範囲が水没した。野蒜駅は震災後線路ごと高台に移設されているが、旧野蒜駅舎とプラットフォームはそのまま残され、「東松島市震災復興伝承館」として整備された。周辺地は公園となっている。田老防潮堤/たろう観光ホテル跡
昭和54年のこと。田老地区には、「万里の長城」と揶揄されながらも高さ10mの長大な防潮堤が築かれた。市街地は防潮堤に隣接する形で発展してきたのだが、今回の津波はそれを大きく乗り越え、甚大な被害をもたらした。防潮堤ほど近くにあった「たろう観光ホテル」は4階まで浸水、1、2階は鉄骨を残して失われた。遺構としてそのままの状態で残されている。
普代村水門
昭和22年から10期40年務めた村長は、明治・昭和の津波被害を教訓に、それらよりも高い水門の建設に固執した。住民の批判に耐え執念で建設した水門は、同じく近隣に建造された防潮堤と共に今回の津波をよく防ぎ、村内被害を最小限に食い止めた。これは字義通りの意味での遺構ではない。現在も現役で稼働している。