イタリアやフランスのような公用語が英語以外の国で、欧州流と米国流の両方がともに暗に批判されている。それが面白おかしく演じられているのですが、これまた米国人の視点で作られているのが多い。ハチャメチャをやっている米国人を茶化し、味のあるやや深みのありそうな生活を送っている欧州人を持ち上げる。
しかし、実のところ欧州を現実以上にユートピアに描くことで、「結局は、プラグマティズム(実用主義)の米国流の方が安心でしょう?」と視聴者に思わせる。ぼくはそう解釈しています。
『エミリー、パリに行く』もそのひとつでシリーズ1から見ています。シリーズ3で「なるほど!」と思ったことがあります。ドラマのなかでマクドナルドはクライアント候補として実名で出ています。一方、LVMHはその許可を出さなかったのでしょう。(現実味があり過ぎてはいけない)高級ブランド企業らしいです。
そして、そのコングロマリット一族の息子がエミリーに「マーケティングにフランスの会社を使わない」と牽制し、「我々はグローバルに通用する企業」を暗示しています。フランス文化を世界に大いに売りながら、フランスのビジネス力は信用ならないと言っているに等しいです。
ベルナール・アルノー(左から2番目)とルイ・ヴィトンのアーティスティックディレクター、ニコラ・ジェスキエール(中央)、アルノーの息子たち(Getty Images)
The Economistの記事を訳した「米国流で高級品磨いた欧州富豪」というタイトルの記事(日経新聞電子版、2022年12月27日)があり、ベルナール・アルノーがイーロン・マスクを抜いて長者番付世界1位になったことを取り上げています。
その中に「米投資会社バーンスタインのルカ・ソルカ氏はアルノー氏が『排他性を数百万人に売る』というパラドックスを発明したと指摘する」という文章をみつけ、ぼくは膝をうちました。
“大衆化されたラグジュアリー商品”という矛盾を受け入れる市場ロジックを、アルノーは「発明」したのですね。それを米国流と英国の雑誌記事はまた皮肉っているわけです(『エミリー、パリに行く』でのコングロマリットの息子の台詞に象徴されるように)。アルノーが米国でビジネスの腕を磨いたのは確かですが、それ以上のニュアンスがあるような印象をもちます。
ラグジュアリー分野は一般の人にはよく分からないことに価値をおくので、本来、批判や皮肉に満ちています。よって、その批判を含んだ議論にどう打ち勝つか。それが勝負所になっているところもあります。ただ、ちょっと気になるのは、特に旧型ラグジュアリー分野に生きる企業人の開き直りです。普通なら恥ずかしいと思われることも、平然と突き進めることもあります。
もちろん、そうでないとパラドックスなど発明できるものではありません。経済格差が広がり、社会の分断は国際的なさらに大きな紛争を誘発する可能性があると盛んに論じられようとも、格差がビジネスに有利に働く間はしれっとしているのです。