カルチャー

2023.01.19 17:00

虚構か現実か 「エミリー、パリへ行く」が優れたフィクションである理由

『エミリー、パリへ行く』主演のリリー・コリンズ(中央、Getty Images)

そういう姿に嘘を感じる人たちが、新しい文化創造としての「新しいラグジュアリー」に注目します。ラグジュアリーに対してよく使われる表現「虚飾に満ちた」と距離があることを自らのアリバイ、あるいはアイデンティティとします。ある人たちにとっては、ある意味「旧ラグジュアリーの否定から入る世界」です。環境にも人権にも倫理的な態度を重視します。
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一方、そうした議論にはまったく関心のないかのように、「新しいラグジュアリー」の世界にふらっと立ち寄るようにやってきて長居する人たちもいます。ごく自然で素直な生き方をしていたら、偶然に出逢ったとでも言うように、そこに佇むのです。『エミリー、パリに行く』に例をとれば、エミリーの元恋人のシェフが、南仏の田舎で示したような反応です。

家族で経営している景色の良い、子どもも遊ぶレストランにシェフとエミリーが訪れ食を堪能します。その時から、シェフは都会のパリであくせく働くのではなく、豊かな自然に囲まれたレストランでしっとりとした人間関係のなかで仕事をしていきたいと思うようになります。ここではパリと南仏の比較で、後者がユートピア化されることで、都会に現実味をもたせるのです。


Getty Images
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このユートピアと現実の間の往来、あるいは競い合いを見ながら、ぼくは一つのことを考えます。

これまで「新しいラグジュアリー」のモデルは、19世紀の英国にあったアーツアンドクラフツ運動のような世界観にあるのではないかと考えてきました。『新・ラグジュアリー 文化を生み出す経済 10の講義』にも、そう書きました。

これはプラグマティズムが染みついた人たちには腰が引けるかもしれない。他方、プラグマティズムの限界を感じている人たちの目には魅力にうつる。「腰がひけている人たちは、中途半端にプラグマティズムなのだよね」とか言いながら。

職人による手作りというこれ以上現実的なことはない行為が、ビジネスとして非現実的だと揶揄される。映画『逆転のトライアングル』は見ていませんが、無人島で大活躍する「サバイバル能力に長けた地味なトイレ清掃員の女性」も現実に生きる実践的な人物であるにも関わらず、ある状況では「意外な姿」に見えてしまう。まるでユートピア社会の救世主のように描かれているのでしょう。これはそう思う我々自身が何か病にかかっているのではないか、と思います。

こう考えてくると、比喩的にいえば病から快復する、別の表現を使えば、ある状況や事柄をリフレーミングする(見方を変える)ことが大きなテーマであることが分かります。それを得意技とするのがラグジュアリーなのです。もちろん、この場合、「新しいラグジュアリー」です。

文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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