テーマに選んだのは「障害受容」という支援のキーワードへの疑問。障害を受け入れろとか、そんな型にはめて私を見ないで、という訴えだった。
(前回の記事:30歳、奇跡の「声」が復活 苦痛から見つけた解決法)
疑問だらけの概念に 押富さんが投げた「豪速球」
2012年5月26日。31歳になった翌日が、日本福祉大高浜専門学校の卒後研修会だった。誕生日を病室で迎えたのは3年連続で、押富さんは31のゴロ合わせでサーティーワンアイスクリーム母たつ江さんに買ってきてもらい、看護師と談笑した。体調は万全ではなく、主治医に「リスクがあることを承知で、本人の意思で外出します」と一筆書いて、外出許可をもらった。車いすのまま乗れる介護タクシーを初めて使い、会場にやってきた。
体力を考慮して、押富さんが実際に話すのは計20分ほど。座長を務める先輩の山田隆司さんが講話を補足し、グループ討議の時間も設けた。
押富さんの発表「障害者になって想う『障害受容』~私が望む援助のかたち~」は、山田さんによれば「豪速球」の内容で、心身の負担が心配だったという。
障害受容とは、理学療法士、作業療法士などのセラピストが、必ず学ぶ概念。教科書によく使われる定義は、東大教授などを務めたリハビリテーション医の上田敏氏が1980年にまとめたもので「障害の受容とはあきらめでもなく居直りでもなく、障害に対する価値観(感)の転換であり障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである」とされている。
あきらめの日々 繊細な気持ちの揺れがわかるか?
押富さんにとって、この概念は違和感だらけだった。
「あきらめではなく」と言われても、自分は口から食べることをあきらめて経管栄養や中心静脈栄養にした。喉頭分離手術で声を失う選択をした。「あきらめの連続」の日々だった。人工呼吸器の常時装着も他に方法はなかった。復職の夢も遠のいた。
「障害はやっぱり自分にとっては『害』であって個性とは別のもの。価値の転換もできませんでした」と押富さんは話した。だから、漢字表記も「障がい」ではなく「障害」を使ってきた。
障害者の心理が変化していくという段階論にも納得できなかった。