しかし、何度も生命の危機を潜り抜けて迎えた30代は、新たな自分を創生していく時代になった。だれもが想像しえなかった奇跡とともに。
(前回:見た目もおいしい「嚥下食」を発信 食べる力の驚異的回復)
人工呼吸器で気づいた「舌の動きで音を出せるかも」
2010年7月、29歳で喉頭分離手術を受け、話す力を奪われた押富さん。自分の思いが伝わらない生活は想像以上に苦痛だった。
在宅診療のクリニックから体調を問い合わせる電話があったとき、気になる症状が出ていたのに、ホームヘルパーは押富さんの意向を聞かずに「大丈夫です」と切ってしまった。
気の合わない訪問看護師がふざけてくすぐってきたときは本気で腹が立ったが、伝わらなかった。
母たつ江さんが会社に携帯電話を置き忘れてきた夜は、隣の部屋にいるのにどれだけメールしても反応がなく、スマホで家の電話を何度もワン切りして、7度目でようやく気付いてもらえた。
文字盤はあっても、自分の意思をきちんと伝えたいときは、ほとんど役に立たない。たとえば「いま履かせてもらった靴下がずれて気持ち悪いから直して」なんてことを、文字盤で伝えるのは不可能に近いのだ。
そうしたストレスのせいもあってか、押富さんの病状は悪化し、翌11年1月から長期入院となって、3月には人工呼吸器を24時間手放せなくなった。
しかし、それがきっかけで「私、ひょっとしたら少しはしゃべれるかも」とヒントをつかんだ。
呼吸器で送り込まれる空気は、気管切開した孔から気道を通って肺に入り、咽頭部分から排気される。声帯は使えないが、口の中に空気がたまるから、それを舌の動きで音に変えることができるかもしれないと思ったのだ。
2度目の登壇を希望 会話練習に熱
病棟の看護師や理学療法士らを相手に、会話練習が始まった。そして30歳になったこの年、押富さんは、母校の日本福祉大高浜専門学校の同窓会役員に「卒後研修会で自分の体験を話したい」とメールで相談して、翌年5月の研修会で講師を務めることになった。
同専門学校は、大学に併合されて廃校になっていたが、同窓会の事業として卒後研修会は続いていた。押富さんは2005年にも勤務先の偕行会リハビリテーション病院で脳梗塞の患者にテレビゲームを活用した脳機能訓練に取り組んだことを発表していた。同窓会役員たちは、押富さんの体調を心配しつつ、思いをかなえてやりたいと2度目の登壇を応援することにしたのだ。
この時点での発語は、まだ「多少の音が出る程度」。だが、目標を設定したことで、練習に一段と熱が入った。