東京を“輝く都市”に
人口過密で環境を悪化させる都市政策を批判したル・コルビュジエは、1930年に理想都市の計画案を発表する。「輝く都市」と題したその構想は、ビルの高層化による空地の確保、ふんだんに緑を取り入れた街路の整備、車道と歩道の分離などによる都市の構築であり、都市の再生だった。
森の魂は震えた。「不労所得を生業にする不動産賃貸業は、社会の寄生虫ではないか」というわだかまりを抱えていた森の屈託を晴らすに余りある衝撃だった。戦後10余年、東京はまだゴミ溜めのような街であった。その東京を、「輝く都市」に──。
東京という都市をキャンバスにした森の人生が動き始める。大学に復帰した森は、学生ながら、株式会社となった「森ビル」の業務部長の名刺をもち、寮の部屋では図面引きに没入し、時間が許せば建設中のビルを飽きることなく見て回った。
59年竣工の「西新橋3森ビル」には、森が責任者として用地取得から建設まで携わった。いまでは当たり前だが、敷地を集約させ、面積を確保し、効率と性能を追求したこのビルは業界の注目を集める。
このとき、屋上に設(しつら)えられた物置小屋のような部屋に入居したのが、冒頭の江副が起こした「大学新聞広告社」(リクルートの前身)。賃料は森がポケットマネーで賄った。
父の時代、一介の貸しビル業者に過ぎなかった森ビルを、本格的な都市開発を行うデベロッパーへと変貌させたのは、1986年に赤坂に竣工した「アークヒルズ」の経験が大きかった。民間による日本初の大規模再開発事業であるアークヒルズの源流は、67年に森が自ら交渉し、取得した「銭湯」だった。
都市の再開発といった言葉さえなかった時代に、森は木造住宅がひしめく一帯を一軒一軒回っては、土地の権利を取得していった。時には住民と酒を飲み、葬儀とあらば数珠を携え参列し、徐々に彼らの警戒心を解いていった。当時まだ30代だった森は、その肩書から「専務ちゃん」と呼ばれるほど、住民たちの信頼を得るようになっていった。
銭湯からアークヒルズ竣工まで、実に19年。その間、森は地べたを這(は)いながらも理想を忘れなかった。そう、森は江副が看破したように起業家であったが、理想家でもあった。
理想家は、リアリストの一面も併せもってていた。2001年、小泉純一郎内閣で総合規制改革会議の委員になるや、都心部での日陰規制の撤廃や天空率規制の導入を訴えた。「デベロッパーの利益誘導」という批判も出たが、意に介さなかった。
03年に竣工した「六本木ヒルズ」は、森が追い求めた“輝く都市”の集大成だった。東京ドーム8個分に相当する広大な敷地に238mの高層オフィスビルがそびえ、周辺を集合住宅、映画館、ホテルなど文化施設が取り囲む。広々とした庭園もあり、ゆったりとした歩道には美しい木々が並ぶ。