英王室と美術館から考える、「旧型」の意義と存続の条件

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美術史に足跡を残したアーティストの作品がコレクションにあれば、その美術館は大きな価値があると思われるでしょう。いうまでもなく、アーティストの評価も長い年月の間に大きく上下しますが、それでも一時代を画した作家の作品があるのは確かに大切な要素です。しかし、そこに掲げている看板がいつも同じであれば、その美術館の価値が減じていく可能性が高い。それを大原美術館(旧大原家本邸内、大原總一郎の書斎にあった書籍の数々も含む)で感じました。 

コレクションの意味は時とともに変遷していきます。およそ1世紀に近い年月を経れば、「最初」という瞬間を表す言葉ではなく、1世紀にわたる活動の塊への意味がより問われてきます。

キュレーションの方向が時の推移に従い変化していく必要があります。繰り返しますが、このためには、今の時代の作家の作品を展示すればよいというものでなく(当然、そうすることで、古い作品との距離感や視野が明確になるとの効用もあり、新作をコレクションに入れていくことに否定しているわけではない)、コレクション自体の再編成と看板の掛け替えが求められるのだと思います。

そうすると、19世紀後半の西洋絵画、それに影響を受けた日本人の絵画、そしてこの潮流に対するオルタナティブな道を選んだ民藝の陶磁器、現在、別々のカテゴリーとして展示されているこれらが、同じ空間で同時に見られるスペースが良いのでは? と素人考えで思うわけです。

実は、大原美術館を訪ねたのち、大原美術館がどう語られているのか? をネット上で見てみました。そうすると、ぼくが感じたようなことは他の方も思っているようです。大原美術館を舞台にした小説を書いた原田マハさんも、この美術館は多くの視点を提供している点に注目しています。

新ラグジュアリーの「新」とは


長々と大原美術館で感じたことを書いてきましたが、これが新ラグジュアリー論にそのまま適用できると考えています。

時代により、素材そのものに対する評価は浮き沈みがどうしてもあります。一貫して高評価が続くことはありえない。その浮き沈みは、評価するコンテクストの変化に左右されます。仮に下降気流から上昇気流に転換する場面があるとすれば、全体環境が何らかの偶然で素材に味方するか、自ら評価をあげるべくコンテクストを創造するか。これらのどちらかしかありません。

従来コンテクストにあったラグジュアリーのロジックが軋む。そのままにしていれば「旧い」と見られます。「古臭い」という意味での「旧い」です。ラグジュアリーといえど、例外はありえないのでしょう。

他方、ぼくは新ラグジュアリーにある傾向、例えば、サステナビリティやインクルーシブという条件を満たしていることを期待します。言うまでもなく、これが必要十分条件とも思っていません。

さらなる理解には中野さんとの共著『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』を読んで頂きたいですが、ひとつはっきりと言えることは、瞬間的に最新に見えるかどうかではなく、「旧いとはみえない」「時を意識させない」新しい文化のあり方を示すのが、新ラグジュアリーの「新」だと思います。

文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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