「籠の中の鳥のようなこの状態は、自分の18歳の頃とまったくいっしょだと思いました。全人類があの時の僕と同じ体験をしているのだと」
澤邊が振り返る「あの時」とはいったい何を指しているのか。2020年にシンガポールのセントーサ島で常設型インタラクティブランドアート「マジカルショア/Magical Shores」を発表し、市川海老蔵がエグゼクティブアドバイザーを務める「ジャパネスクプロジェクト」も仕掛けるワントゥーテンを率いる異色の経営者が、自らの波乱に満ちたこれまでの歩みについて語る。
バイク事故に遭い頚椎を損傷
1992年春、18歳のとき、京都工芸繊維大学に入学したばかりの澤邊はバイク事故に遭い、頚椎を損傷してしまう。その結果、一命はとりとめたものの、首から下が動かせない、移動には車椅子が必要な身体になってしまった。
「それまで僕はスポーツが大好きだったし、活発なタイプでした。しかも受験を終えて遊びたいさかりの時でした。それが事故を境にして一変、自分の意思ではまったく動けずに、半年間も病室で暮らすことになったんです。その後にリハビリが始まってからも、基本的には病院やリハビリセンターにこもりっきりでした」
当初は再び自由に動けるようになると信じてリハビリに取り組んでいた澤邊だったが、やがて治癒する見込みがないことを知らされ、絶望の淵に立たされる。だが悩み抜いた果てに発想を転換して、日常生活をとりもどす努力を始めたという。
「自分としてはもちろん、一生このままだということは受け入れたくありませんでした。けれど、治る治らないという問題はとりあえず置いておいて、本来、自分が続けていたはずの生活をどうやって実現できるか、それを考えるようにしたんです。
僕の場合は、大学に入学はしていたので、まずは何年かけてもいいから通い、卒業することを目標にしました。すると、この身体でどうやって通学するのか、それには何が必要なのか、具体的な課題がどんどん出てくるのです。それらに取り組んでいくことで、ようやく前向きになれました」
その取り組みは並大抵なことではなかったが、そこから澤邊には思わぬ未来が拓けていった。筆記用具を扱うこともできないので、澤邊には代わりのツールが必要だった。そこで担当の作業療法士に頼み、パソコンの使い方を教わり始めた澤邊は、大きな衝撃を受ける。
「先っぽに消しゴムをつけた菜箸を咥えてキーをひとつずつ叩くという、他の人が見たらじれったいような操作しかできないのですが、ディスプレイのなかには自由な空間が広がっていました。
最初に感動したのは、実はRPG仕様のゲームだったんですけど(笑)。ドット絵で描かれた東京の街を、対戦相手を求めて自由に歩きまわれるんです。リアルの世界では人の手を借りないと姿勢を変えることもできない僕がです。それだけで嬉しかったですね。パソコンにものすごい可能性を感じ、一気にのめりこんでいきました」
事故がもたらした不自由さゆえに、誰よりも的確に情報技術の可能性を見抜いていた澤邊は、いま風に言えばデジタルシフトのアーリーアダプターだった。