スポーツとラグジュアリー その組み合わせは新しいのか古いのか?

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ソーシャルイノベーションを起こすスポーツと新しいラグジュアリー、というテーマに「複雑さ」が加わると、現在の私には複雑すぎて太刀打ちできません。たぶん、求められている路線とはまったく筋違いの話であろうと自覚しつつ、「スポーツはそれじたいがそもそも余剰的なラグジュアリーであり、社会変革をもたらす原動力になってきた」という話をします。

いつものように言葉の定義から入ると、sportの語源はdisport です。港(port)に否定の接頭辞disがついています。港=停滞の日常から遠く引き離されるような気晴らし、楽しみという意味です。このdisportから頭音が消えてsportとなりました。

だから、英語のスポーツは、私たちが連想しがちな試合系のゲームばかりではなく、狩猟、魚釣り、ヨットでの搬送、乗馬なども含みます。また、20世紀の初頭には、既婚者との恋愛やパーティー、賭け事、観劇などもスポーツに含まれました。「ここではないどこか」へ連れていってくれるお楽しみと考えればそのようになるのでしょう。


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「気晴らし」というカテゴリーのもとでは、「冗談」「戯れ」もスポーツに含まれます。sport of natureとは進化の戯れ、つまり突然変異のことです。

動詞としてsportが使われる時には「見せびらかす」というニュアンスも帯びます。sport a new coatといえば「新しいコートを見せびらかす」という意味になります。

これだけ見ただけでも、スポーツは歴史的にラグジュアリーとは切っても切り離せない関係を結んできたことは想像できるのではと思います。「ここではないどこか」へ連れていかれることが、個人にとって心身の変革の契機(たとえそれが「気晴らし」と呼ばれる程度のものであれ)になったばかりでなく、結果として社会変革までもたらしてきました。自然界がおこなうスポーツは種の突然変異までもたらしてしまうのです(笑)。

スポーツと女性の地位向上


スポーツがもたらした社会変革の具体例は多々ありますが、まずは最もわかりやすい例として女性の社会的地位の向上を挙げます。

女性の社会的地位の改革をやってのけたのは、思想よりも先に、スポーツでした。乗馬や自転車など、乗り物にまたがって自分の意志で操縦し、自由に移動することができるスポーツです。こうしたスポーツが女性を身体的に解放し、精神的な自立を促しました。

さらにいえば、そのスポーツのために必要な機能を追求したウェアが街着としてのファッションを変え、社会がジェンダーに強いる暗黙の規制に影響を及ぼし、ひいては社会の変革を促しました。

いまでこそジェンダーフリーがあたりまえですが、女性が「男性のような」装いをすることが公的に禁じられた時代が、20世紀の前半くらいまで続いていたのです。機能的な男性服の要素を取り入れた装いで堂々と人前に出ることができたごく限られた活動が、乗馬や自転車だったのです。

アメリカにおける女性参政権運動に尽力したスーザン・B・アンソニー(1820-1906)は、自転車と女性解放について次のように語っています。

「自転車は、世界の何よりも女性解放に貢献したと思う。自転車は女性に自由と自信を与えてくれる。何ものにも拘束されない、自由で、自立した感覚を味わわせてくれる」

現代の感覚からは信じがたいかもしれないのですが、19世紀末には、初めて自転車に乗る勇気、長らくタブーとされてきた二股パンツをはく勇気をもつことは、相当の覚悟が求められました。当時としては大胆すぎた勇気が、参政権運動に参加する勇気と響き合い、女性参政権への道を開いたのです。
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文=安西洋之(前半)、中野香織(後半)

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