例えば、東京2020の車いすテニス・ダブルス試合当日のこと。日本人選手の車いすのフレームが割れてしまった。ところが試合会場のリペアブースには溶接機がなく、修理できなければ壊れたまま試合に挑むか、最悪の場合試合を棄権するしかなかった。
そこでスタッフは、有明のテニス会場から溶接機のある選手村のリペアセンターへ車いすを運び込むことを提案。連絡を受けたセンターは準備を整え、最優先で修理を受け入れた。結果、修理は間に合い選手は無事に試合に挑むことができ、見事銅メダルを獲得した。
「一度でもゲームに直結するような修理をしたスタッフは相当な達成感を得ると思います。もし修理ができなければ、4年間の選手の努力が無駄になってしまうわけですし、なんとかしてあげたいと思いますよね」(佐竹氏)
オットーボック・ジャパン東京オフィスにて、佐竹氏(右)と中島氏
このような責任の重い、緊張感あふれる修理のほか、時には眼鏡やキャリーケースのキャスターといった専門外のものの修理も持ち込まれるという。
「専門外ではありますが、我々は物を作ったり、直したりという技術を持っていますし、そのためのあらゆる道具も持っています。その上で、選手の皆さんにできるだけベストな状態で競技に挑んで欲しいという気持ちがあるから、専門外でもなんとかしようと思うんじゃないでしょうか」(中島氏)
アスリートたちが選手村の中で快適に生活すること、それも競技の結果に結びつく大切なことだ。だからこそオットーボックのスタッフは、たとえ専門外でも、どんな修理依頼でも対応する。それが技術者としての誇りでもあるのだろう。
東京2020でもたらされた共生社会の種
さまざまな国のパラリンピックに派遣されて中島氏が気づいたのは、日本は障がいのある人たちの捉え方がまだまだ遅れているということだそうだ。
「日本では障がいのある方を『直視しては失礼』という感覚があるじゃないですか。でもパラスポーツは自分を見て、と選手がアピールしますよね。ですから、東京2020パラリンピックは見る側にとっても、見られる側にとってもいい機会だと思ったんです。パラスポーツは今まで見たこともない競技がたくさんあるし、新しくて、面白いことをやっている。普通に楽しめることがたくさんあります。それにロンドンパラリンピックの時にメディアが『スーパーヒューマン』という言葉を使って、パラアスリートを紹介したように、彼らの持っている身体能力は他の人たちとは違う次元の素晴らしいものです。パラリンピックの自国開催は、そういったことを知るいい機会になってくれると期待していました」(中島氏)
残念ながらコロナ禍の影響で無観客開催となったが、それでも多くのメディアが取り上げたことで、十分に盛り上がったのではないかと中島氏は言う。あとは、この熱が冷めないうちに「東京2020大会から1年!」などと、カウントダウンならぬカウントアップイベントなど、開催後の検証を楽しくやっていくイベントが行われ、この機運が続いてほしいとも語ってくれた。
「違う」からこそ、上手くいく
東京2020大会には24カ国から集まったオットーボックのスタッフ。言語も文化も異なる人々がチームとなって働くのは大変ではないかと聞いたところ、中島氏は「むしろ、だからこそ上手くいったのではないか」と答えてくれた。
「これがもし2、3カ国からしか参加していなかったら、場合によっては上手くいかなかったかもしれません。いろんな人がいるからこそ『違う』ということを受け入れ、その個性が活かされる。まさに共生社会の縮図のような場所だったんです」と。
違いは個性である。そう考えれば、それぞれがその個性や得意分野を活かして難しい課題を乗り切るというオットーボックの精神にこそ、共生社会実現のヒントがあるのかもしれない。
写真提供:オットーボック