しかしこのメタバースなるものが目指しているのは一体何なんだろうか?
元フェイスブックのメタ社がデモしているメタバースなるものは、上半身しかない自分の3DのアバターがVRの会議室の空間に浮かんでいて、他人のアバターとその場にいるように目を合わせて会話したり、手で何かを渡したり身体表現を加えることができるもので、VRが当初からデモしていたイメージと変わりない。
もともとVPL社が最初にデモしたVRは、コンピューターの作った託児所のイメージの中で、2人のHMDを被った人が相手の3Dイメージと会話する、電話会社のために作られた未来の電話のイメージだった。つまり遠く離れた相手と、声や文字ばかりでなく、対面で会っているような環境を創ろうとした点で、メタバースのデモと何らコンセプトは変わらない。
メタバースやサイバースペースやVRなどの他の似た用語の違いや優劣を論じるのは、結局はそれら言葉を使って新商品を売る会社の開発力を評価する話になってしまうので、いろいろな言葉がイメージしている共通の未来のネット空間のイメージを論じることにしよう。
Pixels Hunter / Shutterstock.com
話題のメタバースに対抗するように、本コラムでも話題にした「ミラーワールド」という言葉がある。一次的には、現実を鏡に映すようにモデル化したVR空間を指すが、メタバースもVRもわれわれが現実だと思っている世界を、デジタル化モデル化してコンピューターやネットの中に再現して、それを全身で操るという仕様だ。
これらに共通の要素は、以前にも使われた一人称的な人間中心の世界観だ。いままで国や社会が与えてきた公共サービスや都市、生活空間の従属者としてのただのユーザーでしかなかった人々が、自分の端末を通して主観的視点で公共サービスや、金融、ニュースなどの従来は提供者側の窓口に出向かなくては受けられなかったサービスを、手許に引き寄せて自分の思い通りに受けることができる。
つまり、広く言えば、個人を世界の従属物でしかない立場から、自分を中心に据え直す大きな視点の変更だ。ある意味、中世までの世界が神の支配する世界で、人間は神や自然の意志に翻弄されて信仰で対応するしかなかったものが、ルネッサンスや科学革命によって、自ら世界の法則を手許に引き寄せ、自らの判断で世界を構築しようとする態度とも重なる。
そういう意味では、メタバースに代表されるトレンドは、21世紀になってよりウェアラブルやインプラントなどでより人に近づいたテクノロジーを使って人間を中心に操る作法とも言え、新しい時代のルネッサンスの再生とも考えられるのではないか。
ただのトレンド語に目を白黒させる前に、こうした大きなデジタル化の潮流に広く目を向けて、人類の文明が新しいステージを迎えているのではないか? と思いを巡らしてみるのも夢がある話ではないだろうか。そうしないと、最初の禅問答で出てきたような、ネットの宇宙に飲み込まれて、それをさらに飲み込める自分を見失ってしまうだろうから。
連載:人々はテレビを必要としないだろう
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