ビジネス

2021.08.13

スノーフレークが「IPO請負人」に会社の命運を託した理由


その後、95年に同社がアムステルダムの企業の買収で困難に直面すると、語学力を買われて責任者に抜擢され、ドットコム・バブルのピークにカリフォルニア支社長を務めた。しかし、当時のコンピュウェアはシリコンバレーの新興企業に優秀な社員を奪われていた。

「私は人がやりたがらない仕事をやってきました。でも愚痴るのではなく、面倒事は全部自分が片付けてやる──。そう思うようになったのです」

スルートマンはその後、データベース業界大手「ボーランド・ソフトウェア」に移籍。経営幹部として事業の立て直しを成功させた後、03年にCEO職のオファーをデータストレージ企業「データドメイン」から受けた。データドメインの技術は競合よりも優れていたが、収益性は低く、資金が枯渇しかけていた。

そこで、スルートマンは、短期の売り上げの増大に専念し、資金調達を成功させた。その後、4年間にわたり毎年2倍のペースで売り上げを伸ばした同社は、07年の上場初日に株価が66%も急騰。その2年後、24億ドルでEMCに買収された。

最初のイグジットを成功に導いたスルートマンは11年に、ソフトウェア企業「サービスナウ」のCEOに就任。同社のキャッシュフローはプラスだったが、人員不足に直面していた。スルートマンは、出資元のベンチャー投資会社「セコイア・キャピタル」から「データドメインの成功を再現してほしい」と頼まれていた。

彼はサービスナウを単なるITヘルプデスク的な企業から、企業活動のすべてをクラウドで一元管理するプラットフォームに進化させることで、ジョンソン&ジョンソンなどの大手の受注を獲得。それから約1年後の12年6月、同社を上場させた。

その過程で、セコイア幹部のダグラス・レオーネらは、スルートマンのやや傍若無人ともいえる経営スタイルを目にすることになる。取締役会で発言中にレオーネに口をはさまれるや、スルートマンはたちどころに反撃したという。

「私のやり方が気に食わなければ、躊躇せずにクビにすればいい。そうでないなら、私は自分の仕事をするだけだ」と。

針路を明確にする“合理的な船長”


そんなスルートマンは、19年4月にスノーフレークのCEOに着任した。データウェアハウス事業を展開する同社は、オラクル出身のデータベースの専門家の2人、ビノワ・ダジェビルとティエリー・クルアネスが12年に創業。初代CEOを務めたのは、立ち上げを支援したサッターヒル・ベンチャーズの投資家、マイク・シュパイザーだった。

顧客の購買履歴から売り上げの管理まで、現代のあらゆる企業にとってデータの管理と分析は必須の課題だ。スノーフレークは、クラウド上に置かれたスーパーコンピュータのように、顧客が保有する巨大なデータを迅速かつ安価に活用することを可能にする。シュパイザーは、14年にマイクロソフトの元プレジデント、ボブ・マグリアをCEOに迎えた。

マグリアは魅力的な料金プランを提示すると同時に、派手な宣伝活動を展開した。しかし18年頃になると、そのビジネスモデルの持続性に疑問符が灯り始めた。スノーフレークのデータウェアハウスは、アマゾンなど競合のストレージ上で運用するため、運用コストが高かった。さらに、マイクロソフトやグーグルら競合のプロダクトと競うには、膨大な研究・開発費用が必要だった。
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文=アレックス・コンラッド 写真=クリスティー・ヘム・クロック 翻訳=左近充ひとみ / パラ・アルタ 編集=上田裕資

この記事は 「Forbes JAPAN No.082 2021年6月号(2021/4/24発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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